あやめも知らず 一.
千夜子は寺の庭先を掃き清めながら、そっと手を合わせて息を吹きかけた。
「寒くなったわねぇ……」
その姿は小袖に湯巻(ゆまき:腰に巻く布)というごく普通の町人のする格好で、長い黒髪こそ切らずにそのまま残してあるが、邪魔にならないようにたたんで結えてある。
七条の屋敷を飛び出した千夜子は、まずは兵部卿の宮から貰った反物などの品を売り、町人の着る粗末な衣服に取り替えた。
下働きとして雇って欲しいといくつかの邸を訪ねてみたが、身元の知れぬ女の突然の訪問は、なかなか歓迎される事はなかった。
途方にくれながらさ迷って、目に付いた寺に駆け込み、行く宛てが無いのだと訴えると、そこで働かせて貰えることになった。
しかしその寺の住職は、千夜子の身元を怪しんでいるようだった。
「本当に家出ではないのですな?」
と何度もそう聞かれた。千夜子の髪は平民にしては長すぎたし、どこか立ち居振る舞いが普通の女とは違っていたらしい。
千夜子はもともとは貴族だという事を正直に話し、身よりも財も無くなって、暮らしに困ってしまったのだ、と告げた。
「お美しい姫君が……もったいない」
と、僧はそれは同情して、千夜子に貴族の着る着物を用意しようとしてくれたが、それは断った。もう千夜子は貴族ではなく、平民として暮らそうと決めていたのだ。
ただ髪を切るのだけは決心が付かず、長いままにしてある。
廊下を拭き清めたり、庭を掃いたりして過ごし、僧や尼に混じって質素な食事を得る。それはあの七条の屋敷に閉じこもっているよりは余程、千夜子にとって充実した時間だった。
(左近の中将様には悪いことしちゃったけど……)
考えた末の、行動なのだ。
左近の中将の将来を潰してまで面倒を見てもらうよりも、こうして自分の力で生きた方が良い。亡くなった母の遺志には反してしまうかもしれないけれど……千夜子はもう、誰かに頼って生きるより、働いて暮らしたかった。それになにより、母が亡くなってから、千夜子には公達を受け入れようという覚悟が無くなってしまったのだ。
胸に残るたった一人の公達は……遠い、雲の上。
きっともう二度と会うことはないけれど、千夜子はその面影をまだ、大切にしていたかった。
それはある意味、母の想いにも沿うものだろう。生前、母は『たった一度でも、高貴な方と縁を結べる事を誇りに、生きていけばよい』と言っていた。それは兵部卿の宮を指しての言葉だったのだが……それよりも遥かに尊い東宮と、千夜子はたった一度、縁を結んだのだから。
しかしそんな生活は、そう長くは続かなかった。屋敷を飛び出してまだ四日ほどの、ある朝の事である。
「姫君……!?」
寺の入り口で掃除をしていた千夜子の姿をまじまじと見る水干姿の男は、千夜子も何度か目にしたことがあった。それは七条の屋敷で下男として仕えてくれていた男だ。
千夜子はついに、左近の中将の従者に見咎められたのだった。
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