あやめも知らず 二.


 半刻もしないうちに、左近の中将はその小寺に駆けつけた。
 突然の貴人の訪問に、寺の住職は仰天した様子で部屋の用意をする。この質素な寺では、それほどに身分の高い者を迎えた事は無く、尼も小坊主も皆慌てふためいていて、千夜子はとても申し訳なく思った。
 ともかくも千夜子は寺の中では一番立派な部屋に押し込められて、左近の中将を迎える形になった。
 青い顔で駆けつけた左近の中将は、千夜子の姿を見とめるなり、叫ぶように言った。

「姫君……っ! そのようなお姿までして、なんのおつもりか……!」

「な、なんのって……、わ、私はただ……」

「ただ?」

 いつも優しげだった中将の厳しい口調に、千夜子は思わず怯む。

「……一人で、生活を……」

 盛大なため息をつきながら、左近の中将が腰を降ろした。

「そこまで、俺をお厭いでしたか……っ」

「……そういう、訳では」

「ではどういう訳なのです!」

 剣幕に気圧されて、千夜子は視線をそらすことしか出来ない。

「……貴女は、宮家の姫君でしょう……! このような事をして、亡くなられた母君にも申し訳ないとは思わないのですかっ」

「……」

 痛いところを突かれて、押し黙った。

「俺をお厭いならそれでも良い、とにかくお屋敷にお戻りくださいっ。俺が嫌だというのなら、兵部卿の宮にでもご連絡さしあげて迎えをよこさせましょう。同じ宮家のよしみ、貴女もその方が良いのでしょうから……っ!」

「……わ、私の事は、放っておいてください……。もともと、世間にも忘れられていた宮家です。……いまさら誰かのお世話になろうとは、思いません……!」

「だからと言って、このような生活をなさる事は、東宮もお許しにはなりません!」

「……え」

 思ってもみない台詞に、千夜子は戸惑った。

「……東宮……?」

 左近の中将はため息をつき、千夜子を見据えた。

「東宮は、それは貴女の事を心配しておられます。……貴女の御身を思って……ご自身が病に臥せってしまわれるのではないかと思われるほど」

「……そんな」

 東宮が。
 東宮は、千夜子の事を忘れては居ないのだろうか。
 あれほど高貴の身の上で、ほんの一度だけ、かりそめに結ばれた、千夜子の事を……。
『側に、居て欲しい』と、そう、書いてあった。
 しかし東宮は、一度は左近の中将との仲を許したはずだ。だから心配するとは言っても、それは千夜子が抱くような想いとは、違うものだろう。
 それはなんだか彼の気質にはそぐわない気もするけれど、ただ、一度だけ結ばれた千夜子の事を、哀れんでいるのかもしれない。

「とにかく、ここに居てはこちらの寺にも迷惑がかかります。まずはお屋敷にお戻りになられますよう。宜しいですね?」

 有無を言わせぬ左近の中将の言葉に、千夜子はうなずこうとした。
 その時、急に、胸が苦しく詰まった。

 前かがみになり、口元を押さえる。

「姫君……!? どうされました」

 ひどく気分が悪い。くらくらとめまいがして……、

「……っ」

 千夜子はその場に、倒れた。


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