あやめも知らず 三.


『千夜子……』

 耳元に囁かれる声は、ひどく甘い。声は切なく胸にまで響いて、千夜子の身体を熱くする。

(ああ……東宮)

 東宮は微笑んで千夜子を見下ろしている。あまりの懐かしさに涙ぐむと、東宮は眉根を寄せた。

『泣くなよ。泣いてる顔は、好きじゃない』

 泣くな、といわれても。
 泣かせているのは、東宮なのだ。懐かしくて、その笑顔に会えた事が、嬉しくて。

「とう、ぐう……」



「……姫君……」

 呼ぶ、声がする。

 ひどく心配そうな声に目を開けると、そこにあったのは左近の中将の優しげな瞳で……千夜子は、落胆のため息を漏らした。

「中将、様……」

「ああ、お気がつかれましたか」

「私……」

 見回せばそこは狭い僧房で、左近の中将の後ろには、面倒を見てくれた住職の姿と、それに見知らぬ貴族の老人……おそらくは薬師の姿があった。

「……放っておいて、くだされば、良いのに……」

 千夜子はそう言って、視線をそらした。

「……何を言われるのです……! 貴女は……っ」

 左近の中将は何か言いかけて、ぐっと唇をかみ締めた。すると、薬師の老人が、口を開く。

「お姫様、貴女……ここしばらく、月のものはおありかな?」

「え……?」

「……身体が重いようなことや、熱っぽいような事は?」

「……」

 千夜子はまたたきして、思い返した。確かにここ最近、妙に身体がだるい気がしている。それに、月のものは……後宮に行く少し前にあったきり……もう二月近く……。

「……あの、私……そういえば」

「やはり、ご懐妊の兆しですな」

「……え……?」

 何を言われたのか、千夜子はすぐに理解できなかった。
 左近の中将はじっと千夜子を見つめて、重々しく口を開く。

「……ともかく、御身が無事でよかった。私は、すぐにもこの事を東宮に奏上しなければ」

 立ち上がり、側に居た僧を振り返った。

「姫君の事、くれぐれも宜しく頼みます。……迎えはすぐに、寄越しますので……」

 そう言って、僧房を出て行く。


「まさか貴女があんな高貴の御方とお知り合いのお姫様だとは……」

 僧は責めるような口調で千夜子に言う。

「……身よりが無いなどと嘘をつかれて……全て、あの方にお世話になれば済むことでしょうに」

「……でも、私……っ。左近の中将様とは何の縁も、無いのです、本当に」

「まさか」

 僧は千夜子の手を取りそうな勢いで言い募った。

「腹に御子まで身ごもられて、縁が無いなどと。……そのようなお振る舞い、中将様のお怒りもごもっともですぞ!?」

「……いいえ、私は」

 老僧は千夜子の言葉を遮って、興奮気味に言い募る。

「縁のないお二人に、神仏は御子を授けたりは致しません。何故にあのようなご立派な公達をお厭いになるのか分かりませんが、子まで身ごもられたのですから、ここは愚かな考えを捨てて、元のお屋敷におもどりなさい」

(……御子……)

 千夜子はまだ理解しがたく、自身の腹を見つめる。何も、変わったところは無い。……子が、居る……、ここに?

「そんな……っ! 御子だなんて……っ」

「まったく、そんなお身体で慣れない暮らしをしようなどと、無茶なことですぞ」

 老僧がため息混じりに説教をする。

(そんな、そんな……!)

 腹に子が、居る。
 ならばそれは……東宮の、御子だ。


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