あやめも知らず 四.


 左近の中将の残した従者と、千夜子の様子を見守る尼僧達と。その目を潜って寺を抜け出すのは、至難の業だった。
 それでも千夜子は、枕辺で千夜子を見張っていた尼がわずかに居眠りしたその隙に、何とか寺を抜け出した。

 時刻は夕刻、薄闇に紛れる逢魔が時。

 腹に子が居るのなら、それは東宮の御子である。

 千夜子はもう、左近の中将に面倒を見てもらうことは出来ない。後宮へ行くことも出来ない。
 ならば一人、都を落ち延びて、何処かの山里ででも暮らすしかないではないか。

 あの優しい左近の中将ならば、それでもまだ千夜子の面倒を見てくれると言うかもしれないが、そんな事は出来ない。
 恐れ多くも東宮の御子に、寂しい暮らしをさせるのは気の毒ではあるけれど……。もし、子が男皇子だったら。もし、後ろ盾の無いまま後宮へなど行ったら……この子は宮廷の権力争いに巻き込まれ、悪くすれば殺されてしまうかもしれない。
 それほどに、後宮は恐ろしいところなのだ。
 ただ東宮に気に入られたというだけで、千夜子は塗篭に火をつけられて、焼き殺されかけたのだから。

(……逃げなくちゃ)

 千夜子は必死だった。ともかく逃げて、どこか……都から遠いところへ行かなくては。そう考えて路地を歩き、羅生門の方角を目指していた。

 都の外れは物寂しく、薄闇の中には物の怪が潜んでいそうだ。そろそろ季節は初冬に入る。歩いていても手先足先は冷たくなり、無事に今夜を過ごせるのかも分からない。なんの用意も無く寺を飛び出して、千夜子は不安と心細さで涙が込み上げそうだった。

 どうしてそこで、足を止めたのかは分からない。
 ふと曲がりかけた路地で、千夜子は足を止めた。

 呼び止める声を聞いたのが先か。足を止めたのが先か。

「千夜子……っ!?」

 男の、声だった。
 振り返ってみればそこには公達が立っていて、呆然と千夜子を見つめている。
 顔にはすり傷を負い、もとは立派であったろう直衣が泥と埃とでひどく汚れていた。たった一人でそんな場所に佇んでいる訳がない、人物。

 幽霊でも見るような思いだった。
 それでも千夜子はようやく一歩を踏み出し、声に出して呼びかけてみた。

「……東、宮……?」

 近づいてみても消える気配は無い。それどころかその姿は千夜子に走り寄ってきて、千夜子の腕を掴むと、ぐいと引き寄せた。

「ほ、本物……?」

 ひどく懐かしい温もりが、今ここに、ある。

「ああ……。お前、馬鹿、何処に居たんだよ……っ! 探したんだぞ」

「探すって……東宮が?」

「そうだ。内裏を抜け出して、探してた。……おかげで追いはぎに出くわしたりして……大変だったんだぞ」

「嘘……」

「嘘なもんかよ。見ろよこのひどい有様を。……東宮だぞ、俺は。くそ、検非違使(けびいし:警察)連中め、ろくに働いてやしない」

 信じられない想いでその顔を見上げる。擦り傷に切り傷。埃にまみれた直衣。およそ東宮には似つかわしくない、乱れた格好で。

「わ、私を探して……?」

「そうだ」

 ぐいっと強く抱きしめられた。

「闇雲に探した。馬鹿だな、俺も……。会えると思わなかった。……会えたらきっと、奇跡だと思った。……でも、だから……会えたら、二度と離さないつもりだった」

「東、宮……」

 内裏を抜け出して。ただの女房だったはずの千夜子を、こうまでして探す東宮が、どこにいるというのだろう。

「こ、このあたりは都の外れで……、きっと、夜には物の怪がでます」

「ああ」

「内裏に戻らないと……」

「ああ。言われなくても戻る」

「東宮……?」

 強く抱きしめられた腕が緩み、千夜子の顔を見つめた。

「会いたくて死にそうだった」

「……っ」

 胸を打つ鼓動が痛いほどに千夜子をゆすぶる。

「お前が後宮から居なくなってずっと。……俺は死ぬほど苦しかった」

「だって……」

 東宮は、千夜子が後宮から退出するのを、許したはずではないか。

「……お前は?」

「え……?」

「俺の事を思い出さなかった……?」

 切なげな瞳が千夜子を見つめている。
 後宮を退出してから、いろいろなことがあった。母が亡くなり、左近の中将の訪れがあり、屋敷を飛び出して都の外れの寺で暮らし……。どうしてかいつも、東宮の顔が心の片隅にあった。……いつも、東宮が恋しかった。

「いつも」

 千夜子の睫毛が雫を含んだ。

「東宮の事が懐かしかった……」

「……俺もだ。お前が恋しくて、死にそうだった」

 東宮の目が細められ、千夜子の顔にすっと近づく。
 性急なしぐさで、千夜子の唇に口付けを落とした。これまでの寂しさを埋めるかのような、熱の篭った口付けを。

 やっと解放されて千夜子がため息を落とすと、東宮は言った。

「……お前も来てくれ。後宮に。……俺はお前を女御にする」


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