あやめも知らず 五.
千夜子は目を見開いて東宮を見……すぐに肩を落とし、視線を逸らした。
「でも……」
千夜子はこれから都を下る。
もう二度と会うことの無いと思っていた東宮と、奇跡のように巡り合った。
お腹に子がいるのなら、きっとこの子が引き合わせてくれた。
きっと最後の……思い出に。
千夜子と東宮とは、住む世界が、違うのだから。
「東宮……。私は、行かないと」
「? どこに」
「……都を下って、どこか……山里ででも、暮らします」
怪訝な顔で東宮が千夜子を見下ろした。
「……何を言ってるんだ」
「後宮へは行けません……。後宮は、危険なところだから……」
東宮は千夜子の手を強く握った。
「俺はお前を後宮に連れて行く! 片時も離さないっ。絶対、危険な目にあわせたりしないっ」
「で、でも……」
「政も何もかも全部、知ったことか! 俺は四六時中お前の側に居る。お前に害を与えるような真似は絶対誰にもさせないから……っ、だから」
無茶なことを言っている。許されるはずがない事を。
「……そんなの、無理よ……」
東宮が、東宮であるうちはまだいいだろう。しかし東宮は将来は帝になって、この国を背負う人なのだ。千夜子だけにかまけていられるはずなど、ない。
「東宮には、もっと相応しい方がいるでしょう……? う、右大臣家の姫様は、入内されるんじゃなかったの……?」
「それは前にも言っただろ! とっくに断ってるって」
「でも」
「俺はもう、お前以外の女御は望まない。生涯、お前だけだ」
耳元で囁かれる言葉はひどく甘い。
「そんなこと」
許されるはずが無い、と。言いかけた言葉は東宮に遮られる。
「俺はもう決めたんだ。もうお前を離さない。絶対だ。このまま連れて行く」
「と、東宮は……、きっと間違えてるんだわ……!」
「?」
怪訝な表情をした東宮を、千夜子はきっと見上げる。それは最初から……、分かっていたことだ。千夜子の気持ちは本物だとしても、東宮は、ただ。
「……後宮に居るときに、聞いたわ。私が……亡くなられた桐壺女御様に、似てるって……! 私は桐壺様じゃないの……! 間違えないで……っ」
できればこんな事は、言いたくなかった。言いながら、自分の心が引き裂かれるように痛むのが、分かる。出来れば、夢を見たままで、行きたかった。……言いたく、なかったのに。
「お前……」
東宮は驚いた顔で千夜子を見下ろしていた。
「なんで桐壺の事を知ってるのか知らないが……。馬鹿だな、お前、全然似てないぞ」
「嘘……っ! 私を後宮へ攫って行ったのだって、桐壺様に似ていたからなんでしょう……!?」
東宮は何度かまたたきをして……それからふっと笑みをこぼす。
「似てない。……桐壺は、こんな風に俺に逆らったりはしなかったからな。まぁ確かに最初、お前を後宮に連れて行った時は顔が似てると思ってたが……全然、違う」
「……嘘……」
東宮は真っ直ぐに、曇りの無い瞳で千夜子の瞳を見つめている。
「千夜子。……俺は、お前に側に居て欲しいんだ」
くらくらと、甘い夢に飲まれてしまいそうになる。
しかし千夜子は頭を振った。
「……だ、駄目よ……」
東宮の手を解いて一歩下がる。ゆっくりと、両の手を腹に当てた。
「わ、私一人なら、まだいいけど……。……ここに」
東宮の顔を見上げ、それを口にした。
「御子が」
「……っ!?」
東宮は驚愕し、千夜子の顔を見つめる。……それから腹に、視線を落とした。
「……なんだって……?」
「東宮……。私はこの子を守るから……。だから……」
東宮は一歩踏み出して再び千夜子の手を強く握った。
「だっ、だったらなおさらだ! 俺は絶対にお前を側から離さない! 俺はお前も子供も、絶対に守る! だから」
東宮は千夜子の両手を握ったまま、潤んだ瞳で千夜子を見つめた。
「頼む。後宮へ来てくれ」
「……」
「頼むよ、千夜子……。命にかえても、守るから……」
その言葉は、遠い夢物語のようで……。
つい飲まれてしまいそうになりながら、千夜子はそれでも首を横に振り続けた。
守らなければいけない。腹に宿ったばかりの小さな命は……まだその実感すらないけれど、それでもどうしても、守りたい。
後宮に行くわけには、いかないのだ。
「千夜子……!」
なだめたり、すごんだり。東宮が必死に千夜子を口説いている間に、だんだんとあたりは夜の帳に包まれていく。
すっかり闇に紛れた頃、突然、小路の角から明かりが射した。
ゆらゆらと闇に浮かぶ、松明かりだ。
明かりは二人を照らし出し、
「姫君……っ!?」
聞き覚えのある声を、聞いた。
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