あやめも知らず 六.


 馬にまたがり、松明かりを手にしていたのは……左近の中将、その人だった。

「姫君、なぜ勝手な真似をなさるのです……っ、そちらの者は」

 馬上の左近の中将は、二人の姿をみとめて愕然とした表情を浮かべる。

「と……っ、東宮……!?」

 慌てて馬を飛び降り、確かめるように明かりをかざした。
 東宮は千夜子をぐいと強く抱き寄せて、左近の中将に向き直る。

「妙なところで会ったな、左近の中将。……七条の事では面倒を掛けたようだ。だが、もう良い。七条は後宮へ連れて行く」

「な、何を……。東宮、なぜ、このようなところに」

「……こいつを探してた」

「……!?」

 左近の中将は呆然と東宮の顔を見つめ、それから慌てて片膝を突いた。

「こ、このような場所にいらっしゃるとは……! 内裏で姿をお見かけできず、どうしたことかと心配しておりました。一刻も早く、お戻りを」

「ああ、そうだな。……七条と一緒に戻る」

「!?」

 千夜子は抱き寄せる東宮の腕を押し戻して、東宮から離れた。

「……わ、私はもう、後宮へは、行きません……! 後宮では生きていけないから……っ」

「だから、それは俺が何とかするって言ってるだろ」

「何とかなるものじゃないわ……っ」

 また、もとの堂々巡りだ。

「じゃあまた無理やりでも連れて行く……っ!」

 痺れを切らした東宮が叫ぶのを聞いて、千夜子は目を見開き、両腕で自身の身体を抱きしめた。

「また……? また馬で攫って……塗篭に、閉じ込めるの……?」

 あの時と同じく、側には馬と、左近の中将の姿がある。……無理やり攫うと言われれば、千夜子には抵抗など出来そうになかった。
 東宮は千夜子の様子にはっとして、いらいらと髪を掻き毟った。

「ば、馬鹿……っ、そうじゃない、俺はお前を女御にしたいんだっ」

「……そんなこと、無理だって言ってるのに」

 言い合っているうち、左近の中将が立ち上がった。

「と、ともかく……とりあえず姫君には、七条のお屋敷へお戻りを」

「……」

 東宮は憮然とした表情で左近の中将を睨み、千夜子の身体に再び腕を回した。

「……そうだな。こうしていても仕方がない。……それなら、俺も七条の屋敷へ行く」

「な……っ!? 東宮、東宮は内裏に……」

「うるさいっ! 俺は絶対に一人で内裏には戻らない。戻るときは……七条も一緒だ」


 東宮は頑として譲らず、とうとう千夜子とともに七条の屋敷へ戻る事となった。

 屋敷へ帰り着くと、千夜子は小袖を着替えて袿を羽織り、東宮も埃まみれだった直衣を取り替え汚れた顔をぬぐって、ようやくひと心地つく。
 左近の中将は大慌てで内裏へ参り、事の次第を帝に奏上するつもりのようだった。

 七条の屋敷に仕える下男下女達も、まさかこの寂しい屋敷に東宮が居るなどという異常な事態に、恐れをなしているのか誰も近寄ってこない。
 千夜子と東宮は、二人きり、……後宮で過ごしたあの夜以来、本当に久しぶりに二人きりでその夜を過ごすことになった。

「千夜子……」

 東宮の声は、千夜子をひどく惑わせる。

「俺を、信じられないか……?」

「東宮の事は……信じても……。後宮の人たち全てを、信じることは出来ません。……後宮は、怖いところだから……」

「……お前が来ないなら、俺も戻らない」

「……そんなの」

 無理に決まっている。東宮にだって分かっているはずなのに……東宮はひどく真面目な顔つきで、千夜子を抱き寄せた。

「側に居たい。……離したくないんだ」

「東宮……」

 東宮の言葉を、嬉しく思う。離れたくない。……それは千夜子とて同じ気持ちなのに。

「私、私だって……。東宮の、……側に、居れたら……」

 涙が込み上げた。どうして東宮は、……東宮なのだろう。せめて千夜子に身寄りがあって、後宮で無事に暮らせるだけの財があったなら、千夜子は東宮を受け入れたのに。

「……でも、離れなきゃ……っ」

 誰もこんな恋を許さない。腹の子は危険な目にあう。千夜子の身すら危うい。

「千夜子。……好きだ」

 その言葉は、鋭い痛みとなって千夜子の胸を刺す。

(好きだけじゃ、どうにもならないのに……)

 それでも、嬉しさは込み上げる。

「東宮……。……私だって……」

(――好きなのに)

 千夜子は東宮の胸に顔をうずめた。涙が溢れる。
 好きで、苦しい。

 想いあっている事が……苦しくて、たまらなかった。


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