あやめも知らず 七.
その夜が、永遠に続けば良いと思った。
東宮の温もりに包まれて、朝を迎える。
「東宮……」
朝の日差しを頬に受ける東宮の表情はあどけなく、千夜子の胸を詰まらせる。
身動きすると、東宮の手がしっかりと千夜子の手を握っているのに気づいた。
「……ん。……千夜子」
薄く目を開いて、千夜子の姿を見とめると、ふっと笑みを浮かべる。
つられて千夜子も微笑んで、いいようの無い幸福感が胸に込み上げた。そのすぐ後に、焦燥が。
きっとすぐに引き離される。……離れなければ、いけないのだ。
昨夜のうちに、左近の中将が帝に事の次第を奏上しているはずだった。きっとすぐにも、迎えがやってくるだろう。
東宮は身を起こすと、もたれかかるように千夜子に体重を預け、ぎゅっとその身体を抱きしめた。
「……いいな、お前が近くにいると……。なんか、落ち着く」
「そんな。……東宮ともあろう人が、こんなあばら家で落ち着くわけがないじゃないの」
「場所なんか関係ないんだよ。お前が居れば」
「……」
東宮はいとおしげに千夜子の髪を撫で、そこに顔をうずめる。やがて千夜子の顔を覗き込んだ表情は、とても幸福そうだった。
「……東宮、どうして……そんなに落ち着いていられるの」
「?」
「貴方はこんな場所にいて……いいはず無いのに……!」
「そりゃ分かってるさ。だからお前も一緒に来ればいいんだよ。何度も言ってるだろ」
「……っ」
千夜子はため息を漏らした。
東宮は絶対に譲る気は無いらしい。しかしそれは千夜子も同じ。二人の意見は相変わらず平行線のままだった。
そこへ、若い下女が恐る恐るといった様子でやって来て、二人のための食膳を運んでくれた。
「お、お、お口に合わないかもしれません。申し訳ございませんっ」
震える声でそう言って、膳を置くと、よほど緊張していたのか小走りに去って行ってしまった。
「……恐縮するなって方が無理か。まぁ、いい。食おうぜ」
東宮は頓着無く箸に手を伸ばす。うながされて千夜子も膳に手を付けた。
「なんだ、結構美味いじゃないか。なぁ」
のん気に笑って、東宮は機嫌よさそうにしている。
のんびりした朝食を済ませると、やがて東宮は膳をずらし、千夜子を後ろから羽交い絞めするように抱きしめた。
「どうしたらお前はその気になるかなぁ……」
「ちょ、東宮……っ」
耳元に息がかかり、千夜子はおもわず身震いする。
「止めて、まだ膳が下げられてないんだから……っ、あの娘が下げに来るわ」
「別にいいだろ」
「よ、良くないわよっ、離し」
案の定、そこへ先ほどの下女がやって来て、ぎょっとした様子でこちらを眺め、顔を真っ赤に染めている。
千夜子は何とか逃れようともがいたが、東宮は面白がっているのか絶対に離そうとしない。
「し、し、失礼いたしましたっ」
下げるはずだった膳もそのままに、ばたばたと走り去ってしまった。
東宮は面白そうに声を上げて笑っている。
「もう……っ! 止めてよ……っ!」
なんとか身をよじろうとするが、東宮は離さなかった。
「お前が後宮に来るって言うまで、離さない」
「……っ」
千夜子は何度目か分からないため息を漏らした。
「……本当に、我がままなんだから……」
諦めて、東宮の腕に絡めるように、手を添えた。
東宮の漏らす楽しげな笑い声が、耳をくすぐる。
ひどく危うい、幸福感。
こんな事をしていては、ますます離れがたくなってしまう。……分かっているのに、それはひどく甘やかな感情で。
いっそ東宮を憎らしく思った、その時。
「あああのっ、ひ、姫様!?」
下げられた御簾の向こう側、庭先の手入れをしていた下男が、ひどく慌てた様子で声を上げた。
「……どうしたの?」
「きっ、き今上の、お、お使いだと言われる女房殿が……っ、その、お越しで……っ!」
「!」
言われて見てみれば、確かに庭先の方に立派な牛車が停まっている。
東宮がちっと舌打ちした。
「早いな。女房って事は……命婦(みょうぶ)あたりか。面倒だな」
「と、とにかく、お通しして……っ。ああ、車をそこの簀子縁まで着けていただいてっ」
この屋敷には、女房が居ない。
下働きの者は左近の中将や兵部卿の宮が用意してくれたのだが、みな炊事や掃除が担当で、貴人の取次ぎなどが出来るような、たしなみある女房は居ないのだ。
千夜子は自ら立ち上がって出迎えようとした。
しかし。
「離して、東宮」
「嫌だ」
「今上のお使いなのよっ!? 離してってば」
「勝手にそこらへ座らせればいいだろ」
東宮は千夜子を抱きしめたまま、あごで簀子縁を指した。
「そんな……っ」
そうこうする間に簀子縁の先に牛車が寄せられ、きらびやかな衣装の女房が簀子縁に姿を現した。
御簾の前までやって来ると、手を突いて深々と一礼する。
その間も東宮は、千夜子を抱いたまま離さなかった。顔をあげた女房に、千夜子は見覚えがあった。
(! ……周防さん……!)
それは後宮で世話になった、中年の女房だった。
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