あやめも知らず 八.
「まずは、東宮の御身が無事で、誠にようございました。……この上は、一刻も早い、お戻りを」
丁寧な物言いではあるが、御簾越しの視線は据わっている。周防の厳しい表情は、後宮で見たときよりもやつれているようだった。
「ああ、俺はちゃんと帰るつもりだ。心配するな」
「いつ、お戻りになられるのです?」
ぴりぴりと緊迫した雰囲気の周防とは対照的に、東宮はのんびりとしている。首をかしげると、抱きしめたままの千夜子の顔を覗き込んだ。
「……いつだ?」
「……っ」
千夜子に答えることなど出来ない。答えに窮していると、
「ま、そのうちだ。……この、新しい女御の決心が付いたら一緒に戻る」
東宮はけろりと言った。
「!」
「なっ、今なんとおっしゃいました……っ!?」
周防は気色ばんだ。
「この七条は正式に女御にする。今、俺は口説いてる最中なんだ。……まぁ、少し待ってくれるように父上にも言っといてくれよ」
「な、なにを……っ。七条殿が、傍流の宮姫であられるという事は、先日私も今上より伺いました。し、しかしそのようなこと、今上も世間も、お認めにはなりませぬぞ……っ!」
「そんなもん知るか。実際に女御を迎えるのは、この俺なんだ」
「……っ! 何をおっしゃるのか……! と、ともかく東宮にはすぐにも内裏にお戻り頂きますっ! 私は今上より強く申し付けられて、こうしてお迎えに参じたのです」
「嫌だ」
「東宮……っ! そのような我侭が通るとお思いですかっ!? 今は私ども梨壺の女房一丸となって、東宮の御身が内裏にないことを隠しておりますっ。今上からもそのようにせよと命じられております! しかしそういつまでも隠し通せるものではありませぬぞっ。このようなこと、世間にもれれば公卿の方々が何とおっしゃるか……! 東宮、東宮の資質を問われるような事になるやもしれぬのですぞっ。そうなれば東宮のお母上であられる弘徽殿様やそのお父上であられる左大臣様にもご迷惑がかかるのですっ」
「……ふん」
「東宮っ! よくお考えくださりませっ! 東宮の資質を問われれば、万が一、東宮の御位が他の宮様に移るような事態にもなりかねぬのですぞっ!」
「はっ、そりゃあ、願ったりだ」
今の帝の男皇子は、東宮の他にいなかった。身分低い女に産ませた弟はいるのだが、とても東宮に立てる身分ではなく、皇子として認知されていない。他に居るのは姫皇子ばかりで、皇位継承に絡むことの出来る宮といえば、帝の弟である兵部卿の宮くらいのものである。東宮は皇位継承争いとはほとんど無縁で過ごしてきたのだ。
「東宮……っ! 何という事を……! とっ、ともかく、内裏へのお戻りは、今上のご命令なのですっ。こればかりは聞き分けて頂きますっ」
「嫌だって言ってるだろ」
火花が散りそうな、御簾越しのにらみ合いが続く。
その間も千夜子は東宮に抱きしめられたままで、ほとほと身の置き場に困り、ただ青ざめるしかなかった。
「今上に、背かれるとおっしゃるのですか……!」
「……別に背くってわけじゃない。近いうちに自分で帰るって言ってるんだ」
「……っ」
周防はすっと立ち上がると、恐ろしい形相で御簾を睨んだ。
「このお振る舞い、しっかりと今上にお伝えいたしますぞ……!」
「勝手にしろ」
後宮では常に優美なしぐさをしていた周防が、簀子縁を踏み鳴らすようにして帰ってゆく。
千夜子は恐ろしくなり、身をよじって東宮を見上げた。
「と、東宮……。どうするのよ、こんな……っ、こんなこと、許されないわ……っ! 早く、内裏に戻って……っ!」
「……だから言ってるだろ、お前次第だ。それとも行く気になったのかよ」
「……っ! 東宮……っ」
千夜子は困り果ててしまった。
このままでは、いけない。何とか、しなければ……。
そうは思っても何の解決策も無く、相変わらず東宮は七条の屋敷に留まったまま。翌日も、その翌日も今上の使いはやって来た。
初日以降、周防が来ることは無く、やって来るのは蔵人の頭(くろうどのとう:帝の秘書官長)の青年で、夕刻に忍んだ網代車でやって来る。なるべく事が世間に漏れないようにと今上は気を使われているらしく、供の数も少ない。毎度「すぐにも内裏に戻るように」と言われるのだが、東宮は頑として譲らず、七条の屋敷に居座っているのだった。
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