麗しき公達の誘い 三.


(今日は垣間見するだけだって言ってたじゃないか……っ)

 左近の中将は身を隠したまま、はらはらしながらその様子を見守った。

「きゃぁっ!?」

 案の定、姫君の口から悲鳴が漏れ、直ぐに姫は屋敷の中に姿を隠す。

「……見えずとも 誰(たれ)恋ひざらめ 山の端に いさよふ月を よそに見てしか……
(たとえ見えなくとも、誰が恋せずに居られましょう、山の端あたりに出でかねている月を遠くに見るように……)」

 兵部卿の宮の、朗々とした、声。
 男の中将でさえもつい、どきりとしてしまう。

(さすが……)

 兵部卿の宮はとっさに気の利いた歌を詠みつつ屋敷のほうへ近づいて、そのまま簀子縁に腰掛けた。

「お許しください、姫君。つい、隠れている月に誘われて、ふらふらと山の端にまで迷い込んでしまいました……」

「……え、あ、あの……。あ、貴方様は……?」

 奥に引っ込んでしまった姫の声が聞き取りにくい。中将は悟られないよう慎重に簀子縁に近づいて、必死に耳を凝らした。

「私は、ただ貴女に恋こがれている者です。……どうか、このような無礼をお許しください」

「……」

「今夜の月明かりは特に美しい。……しかしあの月でさえ、あなたの前では朧月のようにかすんで見えてしまいますね……」

(う、わ……っ)

 聞いているだけで歯が浮きそうな台詞に左近の中将はぞわぞわと嫌な汗を掻く。……と。

「……お、朧月夜に しくものぞなき(勝るものはない)……と、申しますわ……」

 有名な歌の一節を持ち出して、謙遜している、姫君の声。
 鈴の音を鳴らしたような、甘やかに澄んだ音色に聞こえる。

 中将の心臓はうるさく騒ぎ始めた。

(ああ……なんてこった……。こんなところに……)

「はは、これは一本取られましたね」

 兵部卿の宮はそれはそれは楽しげに美しい笑みを浮かべてそう言うと、立ち上がった。

「今日のところは、退散いたしますよ、姫君。……また、近いうちに」

 杓を口元にあて、優美なしぐさで一礼すると、兵部卿の宮は崩れた門の方へ向かって歩き出す。
 身をかがめたまま、慌ててそれを追いかけながら、中将は思わず胸元を押さえた。
 うるさく鳴り響く心臓。暑いのか寒いのか、手の平にはびっしりと掻いた汗。何故だか目頭まで熱くなってくる。

(そうか、これか……。これが、恋か……)

 中将はおぼつかない足どりで、必死に兵部卿の宮のあとを追いかけた。



 帰路に着く牛車の中、

「いやぁ、やはり荊の中には美しい花が咲いているものですね、左近の中将」

 兵部卿の宮はにこにこと上機嫌に笑いながらそう言った。

「どうでした、中将殿? ……その様子では、聞くまでもなさそうですが」

 中将は先ほどから頬が火照って仕方がなく、まだ夢を見ているような心境だった。

「はぁ……宮……、その、俺は……」

「ああ、言わなくても良いですよ。……と言う事は、私達はこれから恋敵という事になるのですね」

 杓を口元にあてて、兵部卿の宮はどこまでも楽しげに笑っている。
 中将ははっとした。
 この兵部卿の宮は都中で並ぶものもないほどの、百戦錬磨の色好みである。比べて自分は、これまでただの一度もまともな恋などした事もない、ど素人。

「み、み、宮……」

 意地の悪い兵部卿の宮の言い振りに、つい中将は恨みがましい視線を送った。

「ははははは、楽しいですね、実に。こんな楽しい恋は久しぶりです。……まさか貴方と恋敵になれるとは。いやぁ、これは由紀殿には感謝しなければ」

 余裕たっぷりの兵部卿の宮の様子に、中将は自分の顔色が青くなっていくのが、ありありと分かった。


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