あやめも知らず 九.


 そうして向かえた、三日目の、夜。

(また、……私が逃げちゃえばいいのよね……)

 そういつまでも、東宮がここに踏みとどまって居られるものではない。
 今はお優しい今上の温情で、この屋敷に留まっているに過ぎない。いくらなんでも、いつまでもこんな事が許されるわけが無い。いつ、力ずくでも連れ戻せ、と勅命が下されるか。

 ……東宮は絶対に、自分一人で帰るとは言わないだろう。千夜子としても絶対に、一緒に行く事は出来ない。

 薄く差し込む月の光が照らす東宮の睫毛と、白い頬を見つめる。
 千夜子はそっと東宮の背に腕を回して、何度も確かめたぬくもりを、もう一度確かめた。幸福と、焦燥と。それはこの数日、交互に千夜子を取り巻いている。

(あの時と似てる……)

 それは、後宮で迎えた最後の朝。眠っている東宮に別れを告げて、千夜子は後宮を後にした。もう二度と会うことは無いと思いながら……。
 もう一度、……こうして会えたのだ。なんて幸せな数日だったろう。
 つい離れがたくなり、数日を過ごしてしまったが、もうこれで、終わりにしよう。そう心に決めて、千夜子はそっと身を起こし、身支度をした。
 袿を脱いで髪をくくり、以前に仕入れた湯巻を腰に巻く。また、東宮を置いていくのは、心が痛い。東宮を好きだと気づいてしまった今は、あの時よりももっと、とても……痛い。

 千夜子はもう一度東宮の寝顔を見つめて、そっとその頬に唇を寄せた。

(ごめんね、東宮……。今度こそ、本当に……さよなら)

 簀子縁を降りて門へ向かった。
 月明かりのまぶしい、夜。思ったほど寒くも無く、千夜子はほっとした。

 その時、背後に人の気配を感じた。

「姫君」

 ぎくりとして振り向くと、そこには左近の中将の姿があった。

「え……! どうして」

 左近の中将は微笑んで近づき、千夜子を見下ろした。

「東宮がいらっしゃるお屋敷です。だれも宿直が居ないのはまずいでしょう……今上に、頼まれましてね。他に事情を知る者も居ないので、他の方には頼めなかったようです。今上もお困りのようでした。……他に侍達も数人、このお屋敷を見張っていますよ。皆、まさかここに東宮が居るとは思ってはいませんが」

「じゃあ……。ま、毎晩、いらっしゃってたんですか……?」

「ええ」

 本当に、この人にはひどい迷惑を掛けている。千夜子は気が咎めてうつむいた。

「ああ、大丈夫ですよ。昼間は帰って寝ていますから」

 左近の中将は優しげな顔で千夜子を見下ろしている。本当に……、どこまで優しい人なんだろう。

「それにしても、どうされたのです。こんな時間に外へ出ようとは」

「私……。逃げようと思って」

「逃げる?」

「東宮から……。東宮は、私がここに居る限り、内裏に帰らないつもりなんです。だから……」

「……どちらへ、お逃げになるのです」

「分かりません。ただ、都を下って、どこか……山里にでも」

 左近の中将はなんどか瞬きして、それから口を開いた。

「……では、俺も一緒に都を落ちます」

「は……」

「姫君お一人では心許ない。男手があったほうが良いでしょう」

「何を言って……」

「俺は……姫君、姫君のためなら、この身を捨てても良いと思っていたのです。……今でも。貴女と供に行けるなら、都の華やかな暮しなど要りません」

「何を馬鹿な事を言っているんですか!」

「……本気です」

「どうして、そこまで……! わ、私は、東宮の御子を……ここに、宿している身なんです。中将様のご期待には添えません……っ」

 千夜子は腹に手をあてて言った。

「きっと、東宮の皇子として育てば、不幸になられる御子でしょう。……俺が、父親になれれば良いと、……そう、思っています」

「……どうして、そこまで」

「お笑いにならないでくださいね。俺は姫を最初に見たとき……運命を、感じました」

 左近の中将の照れたような顔に、千夜子はかっと頬を染めた。

「……っ。そんな……、き、気のせいです……」

「……」

「わ、私は……。東宮が」

 優しげな瞳に見つめられるのが辛く、視線を落として、呟く。

「東宮のことが……、好き、なんです」

「……」

 左近の中将は一歩千夜子に近づいた。

「では姫君は後宮へ行って、女御になろうというのですか」

「無理です! 私には、なんの後ろ盾もないのに……。行っても、不幸になるだけです。だから……だから、東宮の事は、思い出にします。……一人で、都を下って」

「ならば。お供をさせてください」

「中将様……!」

「……東宮の事を想っておられるなら、それでもいい。それは叶わぬ恋です。……少しずつでも、俺の事を受け入れて下されば……」

「中将様……っ、中将様は、お優しすぎます……っ! 私は応えられないのに……っ」

「ゆっくりでいいんです。……いつか、応えて頂ければ」

 また一歩、左近の中将は千夜子に近づいて、その手が伸ばされ、頬に触れた。
 冷たい指先。

 一度だけ、口付けを交わしたことがある。
 ほんの一瞬、流されてしまいそうになった、あの晩。

「……」

 きっと顔をあげればそこには、優しい瞳が自分を見つめているのだろう。
 この手を掴むことが出来たら、どんなに幸せだろうかと。

(もう、流されちゃだめ……! こんなの中将様に申し訳なさ過ぎる……っ)

 千夜子は一歩下がって頭を振った。

「駄目です、中将様」

 千夜子が言って、顔をあげたとき。簀子縁のほうで、がたんと大きな物音がした。
 東宮が、そこに立っていた。


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