あやめも知らず 十一.


 その晩はほとんど眠らずに、東宮はただ千夜子を抱きしめて何か考え込んでいるようだった。
 夜が白み始めた頃、東宮はようやく千夜子を解放し、衾から身体を起こした。

「俺は、ちょっと出かける……」

「えっ、出かけるって、どこに……」

「……お前、絶対ここに居ろよ。逃げたりしたら絶対許さないからな」

「えぇ?」

「いいから、絶対ここに居ろ! 約束しろよっ!」

 寝不足の赤い目にじっと睨まれて、千夜子は思わず、うなずいた。

「絶対だぞ、もしまた消えたりしたら承知しないからな……!」

「……ここに、居ます……」

 千夜子が言うと、ようやく安堵したのか東宮は目元を和ませ、名残惜しそうに千夜子の髪をすくった。髪が手の平をすべって、さらさらと床に落ちきると、ふらりと立ち上がって部屋を出て行く。
 たった一人、何処へ行くというのだろう。ようやく内裏に帰る決心をしたのだろうか。しかしそんな風にはとても見えなかった。

(東宮……)

 昨晩の左近の中将の言葉は、東宮にはひどく堪えているようだった。何度もうめき声のような息を漏らして、そのたび千夜子を強く抱きしめたのだ。

(どうする気なんだろう……)

 千夜子は一人取り残された屋敷で、ただ東宮の帰りを待った。
 内裏へ行ったのなら、もう、戻っては来ないかもしれない。
 いや、戻ってくる前に、今度こそ逃げてしまえば良いのかもしれない。左近の中将も居ない今、逃げるには絶好の機会だ。

 ふと古ぼけた柱の傷が目に入り、千夜子はひどく切なくなった。
 長く暮らした、慣れ親しんだこの屋敷。

(どうして……私が、逃げなきゃいけないのよ……っ)

 ついこの間まで、母とたった二人きり、この屋敷で暮らしてきたはずなのに。どうしてこんな、おかしな事になってしまったのだろう。

(母上……)

 ひどく、母が恋しい。
 この屋敷には、母との思い出ばかりがたくさん詰まっている。
『幸せにね』と、最後の言葉が思い出された。

(幸せって……何……?)

 ぼろりと涙が零れた。

「母上……私は、どうしたらいいの……?」

 ひどく切ない気持ちが押し寄せて、千夜子は動くことも出来ず、ただ涙を零した。


 未の刻(昼過ぎ)頃になると、東宮は戻ってきた。行きは徒歩で出て行ったはずだが、帰りはそれなりに立派な牛車に乗って帰ってきたようだ。

(結局、逃げられなかった……)

 様々な思いが込み上げて、逃げる決心が着く前に、東宮は戻ってきてしまった。
 東宮はすっかり慣れた様子で御簾を潜ると、千夜子の前にやって来た。

「東宮……。どこに行って」

「なんだお前、その顔」

 東宮は千夜子の言葉を遮って膝をつくと、千夜子の頬に手を触れた。

「え……」

「泣いてたのか? ……袖も、濡れてる」

「あ……」

 つい感傷的になっていたのが恥ずかしく、千夜子は顔をそらした。

「俺のせいか……?」

「ち、違います。……ねぇ、何処に行って来たの? 内裏に、戻ったんじゃないの?」

「戻るわけ無いだろ。俺が内裏に戻るときは、お前と一緒だ」

「……じゃあ、何処に……」

 東宮は憮然とした表情で視線を逸らした。

「兵部卿の宮のところだ」

「え? 宮様……?」

「俺が東宮位を捨てたら、次に立つのは、たぶんあいつだから」

「は……」

 東宮の言っていることが理解できず、千夜子はぽかんとしてその顔を見上げる。

「な、何……?」

「俺が東宮だから上手くいかないんだ。だからあいつに譲ろうと思ったんだよ」

「……」

 東宮位を、譲る……。
 千夜子はさっと青ざめた。

「そ、そんな事、そんな事、まさか」

 東宮位というものはおいそれと人に譲り渡すことなど出来ないはずだ。それぞれの後見や政治的な思惑があって、東宮の一存だけでどうこうできるはずもない。

「断られたけどな」

「……」

「あいつめ……。この俺が、土下座までして頼んだってのに……。笑って断りやがった」

「そ、そう……」

「だけどな、千夜子」

 東宮は額をあわせるようにして、千夜子の目を覗き込んだ。

「俺は諦めない。ここにずっと居座ってやる。……周防が言ってただろ。俺に東宮の資質なしだと思わせればいいんだ。いつまでも内裏に戻らずにここにいれば、そのうち世間にも知れ渡る。……恋に狂って内裏にも居ない東宮なんか、東宮の資質なしだ」

「……」

 千夜子は唖然として東宮を見つめた。

「ば、……馬鹿な事、言わないで……。ねぇ、そんな事、無理よ……」

「やってみなきゃ分からないだろ」

「無理に決まってるわ。そんな話、聞いたことも無いもの。東宮のご後見は……たしか、左大臣様でしょう? 黙っている訳ないじゃない。無理……」

「それじゃあやっぱりお前を東宮女御にするっ」

「……そんな」

 東宮は眉を寄せ、苦しげな表情をした。

「……離れたくないんだよっ、それだけなんだ。……それだけ……」

 ……たったそれだけの事が、どうしてこんなに難しいのだろう。
『幸せになって』と、また、母の言葉が思い出される。

(……幸せに)

「東宮……」

 千夜子は苦しげな表情の東宮の頬に、そっと手を伸ばした。

「側に、居るわ。……後宮へは行けないけど……きっとそのうち引き離されると思うけど……今だけは、出来るだけ……側に、居ます」

 千夜子はこの数日、幸せを感じていた。焦燥がいつも付いて回っていたけれど、それでも幸せを、感じた。
 たとえ短い時間でも……。

「千夜子」

 東宮が千夜子の手を握った。
 美しい瞳が細められ、息がかかるほどに、近づく。
 唇に感じる、東宮の熱。口付けはひどく熱く、甘やかで……幸福だった。

 恋ふる想いは、あやめも、知らず――。(ものの道理も分からずに……)


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