あやめも知らず 十二.


 その日も、日の落ちた酉の刻頃になると、蔵人の頭の訪れがあった。
 きりりとした品のある公達で、帝の言葉を丁寧に東宮に伝え、内裏への帰還を促している。いつもは目立たぬ網代車に供の数も一人か二人でひっそりとやって来るのだが、しかしその日は物々しい姿をした侍を六人も引き連れていた。

「……これは、今上の勅でございます。……戻らないというのであれば、力ずくでも連れ戻せ、とも」

 頭を垂れた蔵人の頭は、一応礼をつくしてはいるが……いつこの御簾のうちに踏み込んできてもおかしくはない。それだけの事を言っていた。

「お前……俺に無礼を働くのか」

「今上のご命令ですので」

 顔をあげた蔵人の頭は落ち着いた風情だが、その日は腰に、ひどく不似合いな刀を佩いていた。

「……どうあっても、出てきては頂けませんか? 私としては、東宮に乱暴は働きたくないのですが」

 言いながら、蔵人の頭は膝を立て、腰の刀に手を掛けた。

「出てきて頂けなければ、この御簾を叩き切りますが……」

 すらりと抜かれた刃が青白く照り返す。
 千夜子はごくりとつばを飲んだ。

「東宮……! もう駄目よ……っ、もう、お終い。あんな事させちゃ駄目。戻って……っ」

 およそ、刀など似合いそうにない穏やかな風貌の公達だ。
 しかし東宮は千夜子を抱く腕にいっそう力を込めて、動かなかった。

「……嫌だ、俺は戻らない……っ」

 蔵人の頭は重々しいため息とともに立ち上がると、抜いた刀を構えた。

「……私は、こういった野蛮な事は不向きなのですが……」

 言いながら近づいて、刀を振りかぶった時。

「お待ちなさい!」

 鋭い声が飛んで、蔵人の頭は踏みとどまった。

「……これは」

 抜いていた刀を納め、膝を突いて頭を垂れる。

「兵部卿の宮殿……!」

 庭先に訪れた、久しぶりに見るその貴人は、いつものように杓を口元にあて、優美な笑みを浮かべていた。

「ここは、私に免じてお引取り願えませんか? 蔵人の頭殿」

「……しかし、私は今上に強く命じられておりますので」

「必ず東宮を説いて、内裏に戻しますので」

「……考えが、おありで?」

 蔵人の頭が顔をあげると、兵部卿の宮は含んだ笑みを浮かべた。

「……ええ。必ずや内裏にお連れします」

 自信に満ちた様子で言い切った兵部卿の宮をみて、蔵人の頭は再度頭を下げた。

「……では」

 後はよろしくお頼み申し上げます、と言い置いて、侍達を引き連れて蔵人の頭は帰っていった。


「……俺は、戻らないぞ。兵部卿の宮」

 兵部卿の宮はすたすたと簀子縁に上り、ひょいと御簾を潜って中へ入って来た。しっかりと千夜子を抱いた東宮の姿を見て、おやおや、と目を細める。

「――命やは なにぞは露の あだものを 逢ふにしかへば 惜しからなくに……
(命が何だというのだ、どうせ露のように儚いというのに。逢うことに比べれば惜しいとも思わない……)
 ……といったところですか、東宮?」

 東宮は相変わらず腕を緩める気配すらなく、抱きしめられたままの千夜子は恥ずかしさで顔をあげることも出来なかった。

「東宮……。まさか貴方が東宮位を捨てるとまで言い出すとは思いませんでしたよ」

「じゃ、じゃあお前、気が変わったのか!?」

 兵部卿の宮はくっくっと肩を揺らして笑った。

「そんな訳ないでしょう。私に東宮などつとまるはずがありません。左大臣殿も祖父の太政大臣も今上も、誰もお許しにはなりませんよ」

「だ、だけど俺もお前もその気になれば、父帝はきっと説得できる! そうなりゃ大臣達だって……」

「残念ですが無理です。……大体、私には子種が無いようですから。東宮にはなれません」

「……っ」

 東宮はきっと眉を吊り上げ、兵部卿の宮を睨んだ。

「……何だよ、じゃあ何しにきたんだ」

 兵部卿の宮は楽しげに東宮を見下ろしている。口元に杓をあてているが、楽しげに微笑む口元を隠しきれていない。

「まぁそれでも、あれほどまで真剣に、私に頼みごとをする東宮を見れたのは稀な事です。あんな早朝に供人も連れず、床に手まで付いて……。……さすがに私も、ほだされました」

「だから、何だってんだよっ」

 楽しげな兵部卿の宮に反して、東宮はますます怒りを強める。

「七条殿が後宮にいらしても、戻らないのですか?」

「! ……それは、ち……七条が行くって言うなら、俺だって帰るさ、だけど……」

 千夜子はうつむいたまま息を呑んだ。
 後ろ盾の無い身で後宮へ行くなど、危険きわまりないことは、今の千夜子には出来ない。腹の子は……守らなければいけないのだから。

「わ、私は、後宮には行きません……!」

「七条殿」

 強い口調で呼ばれて、千夜子は顔をあげた。

「……宮様……?」

「……私に、考えがあります」

 兵部卿の宮の目が、きらと怪しい光を湛えた。


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