結 一.


 兵部卿の宮が七条の屋敷を訪れたその日、東宮はとうとう内裏に戻った。
 千夜子はその日のうちに身柄を二条の兵部卿の宮邸に移され、今は美しい装束を着せられて、通された豪奢な部屋の真ん中に座っている。
 いまだ現実感が無い中、

「姫様……!」

 そこに現われた由紀の姿に、千夜子はほっと安堵のため息を漏らした。

「由紀……! ああ、私……」

「姫様、このたびの事、本当におめでとうございます」

「ええ、あの……なんだか、まだ信じられなくて……」

 そこへ、もう一人、懐かしい顔の女房が御簾を潜って姿を現した。

「七条さん……いえ、お姫様。本当におめでとうございます」

「少外記さん……!? どうして」

「ふふ。私も兵部卿の宮様に呼び寄せられましたの。どうせ後宮にお仕えする事になるのは変わらないのだから、こちらのお姫様に仕えてくださいって頼まれて……。ふふ、本当に、驚きましたわ。もう私のことは少外記、とお呼びください」

 千夜子は呆然として、由紀と少外記と二人の姿を見つめる。

「ええ、あの……。私も、本当に驚いていて……。なんだか、現実の事とは」

 言いかけたとき、再び御簾がひょいと動いて、優美な公達が姿を現した。

「それは困りますね。良い日取りが決まり次第、すぐにも入内となるんですから。心構えをして頂かなくては」

「宮様……!」

 兵部卿の宮はくすくすと機嫌よさそうに笑って、千夜子の前に腰を降ろした。

「いいえ、姫君。私の事は、父と呼んでください」

「……は、はい。……義父上、様」

 兵部卿の宮の持ちかけた提案は、それは東宮も千夜子も驚きのものだった。

 兵部卿の宮は、千夜子を養子として迎えると申し出たのだ。
 千夜子を娘として、後見すると。

 子の無い兵部卿の宮にとってもそれはひどく魅力的な提案であり、千夜子が東宮の子を身ごもっているとなればなおさらであった。これまで義父の右大臣に頼って生きるしか術が無いと諦めていた兵部卿の宮は、一気に政治の表舞台に躍り出ることになるのである。互いの利害が一致したのだ。

「恋した姫を娘に迎えるのは、私としては少し複雑な気持ちでもありますがね」

 兵部卿の宮は含んだ笑みをたたえ、片目を閉じて見せている。

「み、宮様ったら……」

「父ですと申し上げたでしょう」

「あ、は、はい。……義父上」

「後で北の方もこちらへ呼んで、紹介します。あなたの義母になる人ですから」

「はい……」

「今日のところはゆっくり休んでください。何かあればすぐに言ってくださいね」

 そう言うと、兵部卿の宮は立ち上がった。

「姫君を宜しく頼みますよ。後宮でも上手くやれるよう、よくお仕えしてください」

 そう由紀と少外記に声をかけ、部屋を出て行く。
 由紀も少外記も、千夜子になじみがあるという事で兵部卿の宮に声を掛けられ、こうして呼び寄せられた。入内にあたって一緒に後宮へ入り、千夜子に仕える女房となるのだ。

「こうなると、本当に入内が楽しみですわね」

 少外記は楽しげににこにこ微笑んでいる。由紀は涙ぐみ、目元を擦っていた。

「ああ……本当に。御方様(千夜子の母)もきっと雲の上でお喜びになっていますわ。こんなに素晴らしい事はありませんわ……!」

 千夜子もついつられて、涙ぐんだ。

「ええ……そうね。……本当に……」

 兵部卿の宮が後ろ盾となる。……これは、大臣家にも引けを取らない、強力な後見であった。


 それから数日のうちに、兵部卿の宮は目を掛けている女房達を、千夜子の周りに集めた。衣装も様々運び込まれ、入内に向けての準備は着々と進められていく。
 入内の日取りも決まり、いよいよその日を明日に控えたその夜、千夜子の元に一通の文が届けられた。文を持ってきた由紀は微妙な表情をしている。

「あの……姫様。お返事はいらないそうですので……。あまり、お気になさらないで下さいましね」

「え? どういうこと?」

「……左近の中将様からですわ」

 差し出された文に、千夜子は目を見張った。

『紅の 初花染めの 色深く 想ひし心 我忘れめや
(紅花の、初花染めの色が深いように、私は初恋のこの想いを、忘れることは無いでしょう)

 まさか、このような結末になるとは、思いもよりませんでした。
 宮廷も今は大騒ぎとなっています。私は、妹の三の君の事もありますが、それ以上に貴女の事が気にかかって……恨むのは筋違いと思いながらも、やはり兵部卿の宮の事はお恨みしてしまいます。
 それでも、きっと貴女はお幸せなのでしょうね。どうせならば、後宮の他の誰よりも、お幸せになってください。そうなればきっと、私の初恋も浮かばれる事でしょう。
 どうかくれぐれも……お幸せに。     左近の中将』

 千夜子はその文に何度も目を通し、大切に閉じて、文箱にしまった。
 返事を返そうかとも思ったが、もう千夜子は中将に応える事は永遠に無いのだ。下手に想いを残す事になってもいけない……と思い、止めた。

(中将様……)

 最後まで、千夜子の身を心配して、その身を捨ててもいいとまで言ってくれた。初め、千夜子は確かに中将の事を好もしく想っていたし……、東宮に出会った後も、その優しさに、揺らいでしまいそうになった事もある。迷惑も、たくさんかけてしまった。
 その中将の「幸せに」という言葉はひどく嬉しくて……有り難かった。

「ありがとう、中将様……。幸せに、なります……」


そして、翌日。
ついに千夜子は、兵部卿の宮の娘として、晴れて東宮妃入内を果たしたのである……。


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