十五.



「時平さま……」

 時平は涙をこぼしてはいなかったけれど。けれど泣いているような気がして、慰めたくて、夢中で手を伸ばした。時平の首に手を回し、引き寄せるように力を込める。時平は慌てて、床板についた腕を突っ張った。驚いた顔で、問う。

「……綾音……?」

 綾音は首に回した手を頬へとずらし、その前髪を梳くように、そっと撫でてみた。思ったとおりの、柔らかい髪。嬉しくて、笑みがこぼれる。

「……時平さま……」

 時平は、綾音を、諦めきれないと言ってくれた。

(……私も)

 綾音も諦めたく無かった。こんなに、想ってくれる人を。こんなにも、胸を高鳴らせてくれる人を。

「……?」

「時平さま、……いいよ」

「え……」

「ちょっと、驚いたんだ。……だけど、もう大丈夫。予定とは違っちゃったけど……しょうがないもんね」

 綾音は、覚悟を決めた。時平とこのまま、結ばれてしまえば良いのだ。それで急に出仕の話が取り止めにはならないだろうけど、少なくとも春宮妃になるような事は、無いはずだ。春宮妃になれない身であれば、きっとすぐに、退出が許される。

 時平も綾音も、帝や次期帝のご不興を買ってしまって、その先の身の上が、どうなってしまうか分からないけれど。父や兄にも、迷惑がかかってしまうかもしれないけれど。……それでも。

「私、時平さまの奥さんになりたい」

「……。綾音……」

 時平はじっと綾音を見つめ、何度か、まばたきした。綾音の髪を指に絡ませ、ぎゅっと握って、目を閉じる。

「……? 時平さま……?」

 時平は目を閉じたまま、綾音の髪を弄んでいたが、そのうちようやく、目を開けた。

「……どうしたの……?」

 時平は、晴れ晴れとした顔で、笑った。すっと綾音から離れ、居住まいを正して座る。

「……やめた」

「え?」

「こんなの、良くない。中納言にも左近の将監にも、……俺達にとっても」

「え? え?」

 不安に駆られ、綾音は慌てて身を起こした。……たった今、覚悟を決めたばかりなのに。

「なんで? だって、そうしなくっちゃ……、私達……」

「許しを貰う。正面切ってさ」

 快活な口調だった。

「絶対何とかしてみせる」

 綾音の目を見て言い切ると、時平は立ち上がった。

「……と、時平さまぁ……」

 思わず、綾音は時平の直衣の裾を掴んだ。本当に何とかなるものなのか。綾音には不安だった。後宮へ上がってしまえば、いつ春宮の手が付いてもおかしくはない。それを拒む術も、助けてくれる人も、そんな権利さえ、綾音には無いのだ。もし、そうなってしまったら。考えただけで、綾音は絶望的な気分に包まれる。

 こみ上げる不安を訴えようと、口を開きかけると、時平はかがみこんで、綾音と視線を合わせた。

「……信じて」

 時平の両の手の平が、優しく綾音の頬を包み込む。そのまま前髪を掻きあげられ、額に、時平の唇がそっと触れた。これ以上は無いほど、優しい感触。

「……約束」

 見上げると、時平は優しく笑っていた。

「……時平さま」

 綾音は泣きたい気持ちになった。愛しさが溢れそうになって、泣きたくなることもあるのだと、初めて知った。

「……信じます……」





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