十六.
後宮で頂いた殿舎は、宣耀殿(せんようでん)といった。広々とした綺麗な殿舎で、殿舎を囲む庭には色とりどりの春の花が咲き乱れている。日課のように、南の方角から宴の笛の音が聞こえ、綾音は毎日ぼんやりと耳を傾けた。
綾音のお勤めである縫物や衣装の管理は、もっぱらお隣の貞観殿(じょうがんでん)で、たくさんの女官達によって行われている。綾音は毎日ほんの少し顔を出して、女官達と挨拶を交わすだけで良かった。
後宮へ上がってからというもの、綾音は毎日をぼんやりと広い部屋の奥で過ごした。無理を言って、夏木を一緒に連れて来ていたので、寂しくは無かった。
綾音は今日も昼餉を終えて、貞観殿へと向かった。
後宮の女官達はみな揃って美しい。貞観殿の女官ももちろん例外ではなく、綾音は自分がその長だとは、とても信じられない気持ちだった。
「ね、夏木。今日はお裁縫、教えてもらおっか」
肩書きだけの役職ではあるけれど、少しくらいは覚えたいと思って、そう提案した。綾音はいつも夏木を連れ歩いている。まだ、心細いのだ。
「まぁ。それは良いですわね、御匣(みくしげ)さま」
夏木は上機嫌で応えた。
「御匣さまともあろうお方が、お裁縫が苦手なんて言ってられませんもの」
「……なんか……慣れないなぁ……それ……御匣さまって」
綾音は首をすくめて軽いため息を吐く。夏木は楽しそうにころころ笑った。
貞観殿に着くと、綾音は手に持った扇の陰から顔半分だして、挨拶した。
「ごきげんよう……」
「あら、御匣さま」
裁縫をしていた十名ほどの女官達が、皆手を止めて、一斉に平伏する。
(慣れないなぁ……)
確かに綾音はこの中では身分の高い姫ではあるのだが、それにしてもこれ程多くの見目よい女官達にかしずかれた経験などない。圧倒されるばかりの光景を見下ろしながら、綾音はおずおずと口を開いた。
「ね、今日は、えと、お裁縫を教えていただきたいのですけど……」
「まぁ、御匣さま。では、こちらへいらっしゃいませ。不肖ながらこの三波が手ほどきさせて頂きますわ」
きりりとした目鼻立ちの、一際目立つ容姿の女官が嬉しそうな声をあげた。歳は二十代の後半といったところか。実質的な長はこの人なんだな、と綾音は悟った。優しそうな微笑にホッとして、その人の側へ寄った。
三波に根気強く教えてもらい、悪戦苦闘しながら裁縫に精を出して、高かった日が傾き始めた頃。にわかに渡殿の方が騒がしくなった。十二単に身を包んだ女房が一人やってきて、
「皆様、じきに、春宮がお渡りになります。ご準備願いますわ」
と告げた。
「まぁ、そんな急に……」
三波が慌てて立ち上がり、周りの女官も慌ててあちこち片付け始める。几帳が整然と並べられ、綾音はその奥に押し込められた。几帳を避けた部屋の最奥の、一段高い位置に円座がしかれる。取次ぎに、三波が几帳の外に出て、他の女房が皆几帳の影に隠れると、程なく男の声が聞こえた。
「やあ、抜き打ちで来たのにすっかり片付いてしまったみたいだね。つまらない」
几帳の隙間から覗いて見て、綾音は思わず息をのんだ。
(え……っ、と、時平……さま……?)
しかしすぐに違う、と気づいた。歳が違う。声も違う。時平はまだ十八だが、几帳の向こうに見える人物はどう見ても二十代の中盤といったところ。それに、物腰が少し柔らかい感じがする。
(でも……)
似てる、と綾音は春宮の姿に釘付けになった。同腹の兄弟と聞いてはいたけれど、これ程とは。時平がもう少し歳をとったら、そっくりこのままの姿になるのではと思えた。
春宮はさっさと部屋の一番奥へと歩いていって、一段高い円座へ当然のように座った。脇息を引き寄せて肘をつくと、真っ直ぐに綾音の方を見た。
(えっ!?)
春宮は、じっと、見ている。
几帳越しとはいえ、姿を見ていたのに気づかれたか、と綾音は冷や汗をかいて、慌てて顔を伏せた。
「……三波」
春宮が口を開いた。しかし視線は綾音のほうに向いたままである。
「お前、せっかく上司ができたんだろう。紹介してくれないか」
「え……っ、は、はい。では僭越ながら……」
三波はずず、と綾音の目の前の几帳まで寄って、手で指した。
「こちら、この度御匣殿の別当としてお越しになられた、中納言家の姫君でございます」
綾音は慌てて平伏した。三秒待って、顔を上げると、やはり春宮はじっと綾音を見つめている。
「……御匣殿」
「は、はい」
綾音は思わず背筋を伸ばした。ふっと春宮が唇の端をあげて、笑った。
――似ている。
「……呼びにくいな。……桜の君と、お呼びしてよろしいか」
「えっ……」
驚きのあまり、綾音は扇を取り落としてしまった。
「……」
「ご迷惑かな」
春宮は相変わらず微笑んでいる。
「……」
(姫さまっ、お返事、お返事っ)
夏木に後ろからつつかれて、綾音はようやく我にかえった。
「えっ、あっ、はい! どうぞ、呼んでください。ええ、その……どうぞ」
くっくっと、堪えきれない笑いが春宮から漏れる。
「桜の季節に出会ったから、桜の君、とね」
「……」
綾音は真っ赤になるのが自分でも分かった。きっと、春宮は時平から全て聞いているのだ。
不意に、春宮は視線を外して三波の方に向き直った。
「三波、今日は暖かいね」
「えぇ、そうですわね。もうじき、衣替えですわ。こちらも忙しくなります」
「うん。今日あたりは、寝苦しいかもしれない。新しい夜着が欲しいんだけどね」
「あら……まだ、夜は寒うございますわよ。仕立てはすんでおりますけれど」
「……三波」
春宮は意味ありげに三波を見つめ、それからちらりと綾音に視線を送った。……ほんの、一瞬だったけれど、確かに。
三波は驚いたようにまばたきし、それから頭を下げた。
「……では、夜までには、届くように致しますわ」
「うん。よろしく頼むよ」
春宮は満足げに笑った。
それから、春宮は三波や他の女房達と楽しげに話をして、半刻ほどして帰っていった。
綾音も、春宮を見送るとすぐに貞観殿を出て、宣耀殿へと帰った。なぜだか、胸騒ぎがした……。
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