十七.



 すっかり日も落ちた、戌の刻(八時頃)。綾音は夏の仕立てのごく高級な衣を抱いて、三度目のため息をついた。

「やっぱり、行かなきゃ駄目……?」

 泣きたい気持ちで、戸口に控えた三波を見た。

「はい。お勤めでございますから……」

 うなずいて、三波は言った。心配そうに夏木が見つめている。

「……」

 後宮へ来てから十日と少し。穏やかな日々が流れて、少しだけ安心していた。……でもやっぱり。やっぱり、父の言った通りなのだ。

(私……)

「あの……桜君さま。そろそろ行かれませんと。もう随分、春宮はお待ちですわ」

「……」

 綾音は唇をかみ締めて、立ち上がった。夏木も付き従って立ち上がろうとしたが、三波に止められた。

「夏木さんは、控えてくださいな。……私、梨壺まで、桜君さまを一人で送り届けなければなりませんの……」

 申し訳無さそうに言われて、夏木は留まった。

 綾音は宣耀殿を出て、春宮の待つ梨壺へ向かった。



「やぁ、遅かったね。桜の君」

 梨壺の奥。下げられた御簾の奥から、先ほど会ったばかりの春宮の声が聞こえる。

 一緒に来た三波は一礼してすぐに退がっていった。

「あの……夜着を、お届けに参りました……」

 恐る恐る綾音が言うと、するすると御簾が上がって、春宮の姿が見えた。

「うん。ここへ、持ってきてくれるかな?」

 優しく笑っているけれど。

(……誰も、居ない)

 綾音は緊張で震えながら、ごく、と喉を鳴らした。

(どうしよう……どうしよう……。……時平さま……!)

 綾音は真っ青になりながら、春宮の元へ歩いた。普段は着ない十二単を着ているのが、殊更重く感じられる。嫌な汗をかきながら、ゆっくりと歩を進めるうち、綾音は着物の裾を踏んづけた。

「きゃ……っ」

「桜君……っ!?」

 目の前の景色が流れて、今、床にぶつかる、という所で、暖かい何かに受け止められた。

「……っ!?」

 強く薫る品のよい香。――春宮の腕だ。

「……危ないな」

 綾音を抱きとめて、ふぅと春宮は息を吐いた。

「大丈夫?」

「あ、……は、はいっ……」

 優しい微笑みだ。……時平に、良く似た……。

「気をつけて。大事な身なのだから」

 春宮は意味ありげに笑うと、立ち上がった。

「……」

 綾音の手を引いて立たせ、そのまま御簾の奥へと招き入れる。綾音は逃げ出したい気持ちだった。

(春宮さまは優しい。……だけど、だけど……)

「そんなに、怖がらないで? さすがに、傷つく」

 微笑んだまま言って、春宮は円座に腰を下ろした。ハッとして綾音はうつむいた。

「……す、すみません……」

 春宮はくっくっ、と楽しそうに笑った。

「……ホントに、素直なんだね、桜君は。……はは、確かに、可愛い」

 かぁっと綾音の頬が染まる。春宮は綾音に手を差し出した。

「夜着。……届けに来てくれたんだろう?」

「あ、は、はい」

 転んだときにも握り締めたままだった衣。持っていることも忘れそうだったそれを、慌てて綾音は春宮に差し出した。――手首を、掴まれた。

 ふあ、と春宮の膝に衣が落ちた。

「……!?」

 春宮はじっと綾音を見上げている。手首を掴まれたまま。沈黙が続いた。耐え切れず、綾音が声を上げる。

「……あ、あの……」

「……このまま」

 春宮が少し身動きした。

「引き寄せてもいいのだけど」

(……!)

 春宮はじっと綾音を見つめている。

(どうしよう……!)

 後宮へ来たら、きっとこうなると分かっていた。でも時平は、信じてと言った。

(でも、でも……!)

 フッと春宮は笑った。そのまま、手を離す。

「……え……」

「そんな顔しないで。……すまないね、ちょっと、魔が差した」

「……?」

「……何もしないよ。安心していい」

「春宮さま……?」

「ただ、もう少しここに居てくれるかな?」

 春宮は上目遣いに綾音をみて、いたずらっぽい笑みを浮かべている。

「……は、はい」

「そうだな、碁でも打とうか」

 そう言って春宮は立ち上がり、碁盤を持ってきた。

「は、はい……?」

「じゃ、桜の君が黒で。どうぞ?」

「……?」

 いぶかしく思いながらも、綾音は碁石を手に取った。





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