十八.



「……桜の君?」

 春宮の声がぼんやりと聞こえる。もう、碁を打ち始めて随分立つ。時刻は、子の刻(深夜零時)をとうに過ぎているはず。綾音の意識は眠気で朦朧としていた。

「桜の君ーー」

「ん、あ、はい。……えぇっと」

 いけない、いけないと思いながら、眠気を振り払って碁石を置く。春宮が首をかしげた。

「本当に、そこでいいの?」

 眠くて頭が働かない。緊張していたはずなのに、春宮が何もしないと分かったとたん、安心してしまったみたいだ。

「……はい。ここで」

 言うと、春宮はくす、と笑った。

「じゃ、私はここ。……勝負あったかな」

 黒い石がごっそり取り去られ、碁盤はほとんど白の陣地となった。

「あ……。はい、駄目でした……。参りましたです……」

 失礼とは知りつつ、綾音は目をこすりながら言った。

 春宮がくっくっと笑う。

「桜の君。眠いようだね。……本当は朝まで碁で付き合ってもらおうと思ったんだけど……。仕方ないな、寝ようか」

「えっ」

 てっきり、宣耀殿へ帰るように言われると思っていたのに。「寝ようか」という一言で、一気に綾音の目は覚めた。

「私の寝台は無駄に広いからね。大丈夫、二人でも窮屈という事はないよ」

 あっけらかんと春宮は言う。綾音は血の気が引くのが自分で分かった。

「だって……あの……」

「ん、何?」

「だって……」

 さっき、何もしないって言ったのに。

「あぁ、手は出さないよ。……私の理性が持てば、だけど」

 春宮は楽しげに笑う。

(……そんな……)

 いくらなんでも、一つ布団で寝るわけにはいかない。

「あ、あの、もう一局。もう一局お願いします。あの、私、眠くありませんから……っ」

 必死に言うと、春宮はおや、と眉を上げた。

「……そう? それでも私は構わないけど……」

 言いかけて、不意にいたずらっぽく笑った。

「じゃあ、次は賭けをしようか」

「え? 賭け、ですか」

「そうだな……桜の君が勝ったら、時平に会わせてあげよう」

「えっ!!」

 綾音は思わず身を乗り出した。拍子に碁盤の碁石がジャラジャラと音を立てて床にこぼれ落ちる。

「あっやだ……すみません……っ」

 慌てて拾い集めていると、春宮は楽しそうに笑った。

「そんなに、嬉しい?」

「えぇっ……えっとぉ……」

 綾音は耳まで赤くなる。こんな時の答え方は、父も兄も教えてはくれなかった。

「ははっ。……じゃ、私が勝った場合だけど……、そうだな」

 春宮はじっと綾音を見つめた。

「……?」

 真っ直ぐに見つめられるとドギマギしてしまう。何しろ時平と同じ顔……いや、時平よりも歳を取っているせいか、色気があるのだ、春宮は。耐え切れなくなって、目を逸らそうとした時、春宮が口を開いた。

「あなたの唇がいいな」

「……」

 ……くちびる。……唇。……唇!?

「えっ……え、えぇっ!?」

 かぁっと頭に血が上った綾音を見て、はっはっは、と春宮は前かがみに腹を抱えて笑った。

「……なな、何をおっしゃってますですのっ」

 訳の分からない敬語で叫び、綾音は抗議した。しかし春宮は取り合わずに、碁石を握り始めている。

「置石は、二つでいいね。好きに置いていいよ、桜の君」

 にっこり、と。花が零れるような微笑みに、綾音は抵抗も出来ずただただ碁盤の石を見つめた……。





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