十九.
すでに東の空は薄っすらと白み始めている。 黒石を握り締め、碁盤を睨んだまま、綾音はずっと、動けずにいた。春宮は辛抱強く待っていたが、そのうちひとつ、あくびをした。
「……どうだろう、桜の君。すでに勝負はついたと思うけど……まだ続ける?」
綾音はしばらく思案を続けていたが、とうとう目を伏せて、口を開いた。
「……負けました」
長い間握り締められて熱くなった黒石が床に落ち、こつんと音を立てる。
「うん。楽しかったよ、ありがとう」
春宮は満足そうにうなずいて微笑んだ。
綾音は碁石を片付け始めた。指先が震えるのが自分で分かる。この後どうなってしまうんだろう。どうしよう。
指先を、握られた。
「……と、春宮さま」
「約束は、約束だからね」
春宮は二人の間に挟んだ碁盤を横へ押しのけて、綾音を引き寄せた。春宮の手は綾音の顎を押し上げ、短い距離で視線が絡み合う。
「目、閉じて」
どうしよう。どうしよう。
綾音は目を閉じることも出来ず、春宮を見つめ続けた。春宮はふっと笑った。
「……仕方ないな」
そう呟いたと思ったら、綾音の視界は春宮の手の平で塞がれていた。息づかいが、もう、触れるほどの距離。
「……っ」
綾音は思い切り腕を張った。何も考えては居なかった。反射的に突っぱねたのだ。
「……っと」
突き飛ばされて後ろに手を突いた春宮が、驚いた顔で綾音を見ている。
「……ぁ」
自分自身の、あまりに恐れ多い行動に、綾音は呆然としてしまった。相手は、春宮。とても、とても許される行為ではない。
「……も、申し訳ありませんっ! 私……っ」
綾音は立ち上がった。
「でも、でも、私……お許しくださいっ」
綾音は駆け出した。
どうしよう。こんな事して、絶対にただじゃすまない。
絶望感に、涙がこみ上げる。
だけど、だけど――!
「待ちなさい!」
妻戸から飛び出す寸前で、腕をつかまれた。
「……どこへ逃げるつもり? ここは後宮だよ?」
「……っ」
綾音は顔を上げる事が出来なかった。冷や汗だけがどんどん流れて、息が苦しい。
……逃げられない。どこにも。
「……そんなに嫌がられると、ショックなんだけど……」
くすくす、と微笑う気配がある。
「と、春宮さま……?」
恐る恐る振り向いて顔を上げると、ふっと顔を寄せられた。
「あ……っ?」
少しだけ、頬に、触れたのは。
「仕方ない。これで許してあげよう」
「……」
思わず頬を押さえて、春宮を見上げる。優しい微笑が、綾音を見下ろしていた。
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