二十.
梨壺の警護は厳しい。春宮のいる殿舎なのだから、当然だ。しかし時平は顔パスのはずだった。夜中だろうが忌み中であろうが構わず尋ねていたのだ。いつもなら。
「……そこをどけ、左近の将監」
「出来ません」
左近の将監の身分では、普通後宮へは上がれない。しかし今は特別である。妹が後宮入りしたこともあり、左近の将監貞成は勅許により後宮の警備に当たるようになっていた。それも今日という今日は梨壺の警備に任ぜられていた。
「綾音が……っ、いる、と聞いた。どけ」
「……存じております」
貞成は落ち着いた口調で答える。
「……っ! じゃあお前、本当なのか!? 綾音は今……!」
時平が詰め寄ると、貞成は言い難そうに眉をひそめた。
「……この目で入って行くところを見ましたから……」
「……っ!」
時平は貞成を押しのけ、通せんぼされた渡殿を駆け抜けようとした。
「式部卿の宮!」
貞成の叫びと共に、時平の袖がつかまれる。
「……っ放せ!」
「じき、夜も明けます。綾音が梨壺へ入ったのは酉の刻頃。……すでに、二人ともご就寝でしょう……」
「……っ!」
時平は地団太を踏んだ。
「ふ、ふざけるなっ! お前……っ」
貞成の胸倉を掴んで、時平ははっとした。
「お前」
貞成の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「綾音は……式部卿の宮時平様の事を語るとき、それは……嬉しそうにしていました。……それが……兄として私は……っ」
「……っ、だったらここを通してくれよ……!」
時平の目にも熱いものがこみ上げる。
その時。ぱたり、妻戸の開く音がした。
「綾音……!?」
白んだ空の薄明かりに、十二単が姿を現したのだ。
「……え……と、時平……さま……!?」
時間が止まったようだった。
日の光が強まって、綾音の姿をだんだんはっきりと映し出していく。寝不足なのか、綾音の目の下は薄っすらと腫れていた。
貞成が、時平の視線から庇うように綾音の前に立った。
「……宣耀殿まで、送ろう」
「あ……」
さやさやとした衣擦れの音と供に、綾音は貞成に腕を引かれて去ろうとしている。すれ違いに、綾音が何か言いたそうに時平を振り返った。
「とき……」
しかし時平は動けなかった。視線を合わせず、うつむいていた。怖かった。兄の物になってしまった綾音を、直視するのが怖かった。
どれくらい立ち尽くしていたのか分からない。声をかけられた時、朝餉を用意する煙が立ち昇るのが見えた。
「怖い顔をしてるな。時平」
渡殿の支柱を背もたれにして立ち、袖で口元を覆っている。いつのまにか現れ、余裕の笑みで時平を見下ろす、兄春宮。
「おかしいかよ」
「……」
「そうやって笑って、満足かっ!?」
時平はぶるぶると震える拳を握り締めた。
「あぁ……満足してるよ。申し分ない、かわいい姫だね。桜の君は」
「……っ」
時平は兄春宮に殴りかかった。踏みとどまる事は出来ず、激情のままに拳を突き出した。
「おっと」
すんでの所で、春宮はかわした。
「やめろ時平。人に見られたら庇いきれない」
「……っ」
握った拳から力が抜ける。
「なんで……っ」
「……あんまり邪魔立てするものだから」
「?」
「桜の君が宮中に来てから、お前、毎日こちらへ顔を出すようになっただろう?」
「……」
「しかも桐壺や他の女御にも働きかけて、何かとご機嫌取りに走り回って。……少しでも私の目を宣耀殿に向けさせないためだと……分かっていても、楽しかった。桐壺の機嫌も良くって助かったし」
くく、と春宮はまた含み笑いした。
「それに、父上も喜んでいたよ。滅多に顔を見せなかったお前が、日をおかずに尋ねてくるってね。内容は中納言の姫と結婚したいとそればかりだけど、熱心なお前を見るのが楽しかったそうだよ」
「……それとこれと、どういう……?」
「うん。まぁ、お前がいろいろ宴を企画したり女御達をその気にさせたりとしてくれたのが功を奏して、私はなかなか桜の君に会う事が出来なかった訳だ。そこで私は強硬手段に出たんだよ、なにしろお前がここまで入れあげてる姫に興味があってね、ぜひともお会いしたかった」
「……」
「こんなに早くお前がかぎつけるとは予想外だったが……」
兄春宮が言わんとすることが、よく理解できなかった。
「……だから、綾音を盗ったって事かよ」
「綾音というのか」
「……」
「良い名だな」
「ふ、ふざけんなっ」
我慢しきれずに掴みかかる。
ダンッ。
春宮の背が支柱にあたった。すっと春宮の顔が険しくなる。
「離せ時平! 人が来る!」
兄弟とはいえ、春宮に手を上げたとあっては只ではすまない。たとえ当人が良いと言ったとしても。
ばらばらと警護の侍が駆けつけてきた。
「どうされました!?」
「……何も無い。寝ぼけて柱にぶつかっただけだ、下がっていろ」
「……は」
警護の侍は不振げに春宮と時平を見比べたが、言われたとおりに下がっていった。
「落ち着け、時平」
時平はぎり、と歯軋りした。
これが、落ち着いていられるか。何も出来やしなかった。「信じて」と言った、あの言葉は嘘になってしまった。悔しさで涙がぼろぼろと溢れる。それが余計に悔しくて、時平は首を振った。
「いじめすぎたかな……」
ぼそ、と春宮が呟いた。
「何?」
春宮はじっと時平を見つめ、次にくくく、と笑い出した。
「っ、何がおかしいんだっ!」
「まぁ、ちょっと来い」
そう言って、春宮はさっさと梨壺へ引き上げていく。
(……っ!?)
憮然として立ち尽くしていると、春宮は振り返って時平の腕を掴んだ。
「来なさい」
「何だってんだよ……っ」
引きずられるようにして、時平は梨壺へ引き入れられた。
<もどる|もくじ|すすむ>