三.
桜花 盛りの園に 我れ行かむ 君が使ひを 片待ちがてり
――待ちきれなくて。
「……って言ってもさぁ……、だってまだ、一日しかたってないよ……? 今日、父上様に相談するつもりだったもん……」
「だったもん、じゃない!」
綾音はしょんぼりと首をすくめた。恋文の返事は、早い方が良い。早ければ早いほど、気持ちが強いとされるのだ。それはこの時代、一般常識だ。
「だって……」
兄が深いため息をついたとき、また新たな来訪者が現れた。
「父上」
「父上様」
父はいつ来ても穏やかな笑みを浮かべている。
「うん、ごきげんよう」
穏やかに言って、優雅な物腰で腰を下ろした。後ろに夏木が控えてるのを見ると、夏木が呼んできたのだろう。
「さて、綾音。文を貰ったんだって?」
「はい」
綾音は素直にうなずいた。
「父上! こいつ、まだ何の返事もしてないっていうんだ。俺は今日、式部卿の宮さまに嫌味を言われたよ。何の事かと思ったら、コレだ」
ひどい口調で割り込んで、兄が叩きつけるように広げた、二通目のお文。……勝手に見るなんて、ひどい。
「……うん、確かに。綾音、すぐに良いお返事を差し上げなさい。代筆は、そうだな、吉野をやろう」
「えっ」
綾音は目をひん剥いた。
「ち、父上様、良い返事って、……これ、私、受けるの!?」
「そう、お断りはできないね。受けなさい」
父の様子は至って平静だった。
「嘘ぉ……」
綾音がぼんやり呟いているうちに、父は夏木に声をかけ、吉野を呼んでくるように命じている。吉野というのは母君付きの古参の女房で、この屋敷では一番の手跡の者だ。夏木は慌てて部屋を飛び出していった。
「父上……」
あっさりと決定した父の態度に、兄も驚いたらしい。大体父はいつもおっとりしていて、せっかちな貞成の目には、じれったいくらいに映るのだ。
「ああ、貞成。文が出来たらお前が届けてくれ。相手は式部卿の宮だ、礼をつくした方が良いだろう。さ、今のうちに直衣にでも着替えて」
てきぱき指示されて、兄も部屋を出て行った。
部屋には、父義貞と綾音の二人。
「父上様、私……」
あっという間に取り決められて行く自分の身の上に、綾音はついて行けなかった。
今までにも文を貰ったことが無い訳じゃない。決して貧しくも卑しくも無い、貴族の姫の身の上である。それなりの求婚はあった。しかし、どれも曖昧な返事の文のやりとりを数回繰り返しただけで、そのうち「お断りしなさい」の父の一言で、片付いてきたのだ。それなのに。
「式部卿の宮さまって……」
確かに、懐かしい人ではあるけれど。もう十年も前の記憶でしかない。それも、たった七日余りの。もう顔も思い出せないし、今どんな人になっているか、綾音には想像もつかない。
「大丈夫。……良い方、だよ」
良い方、という時の父の歯切れが微妙に悪かった。
「類を見ない美男子でらっしゃるし、何しろ、この上ない身分の方だ。今春宮には当然一の宮さまがたっておられるが、式部卿の宮は一の宮様とは同腹の左大臣家に連なる宮であらせられる。……次の春宮にたってもおかしくない身の方なんだよ」
「と、とと春宮さま!?」
雲の上の話だ。綾音は目の前がすぅっと暗くなった気がした。後宮の物語は数多くあるが、綾音はどれもあまり好きではない。女御様というのは、一見華やかそうに見えても不幸な方が多いのだ。しかも、綾音の身分では女御にはなれず、更衣という立場になる。
「……まぁ、今春宮にはたくさんの女御さまが上がってらっしゃるからね。そのうち皇子がご誕生になれば、そちらに傾く事になるだろう。綾音はそんな心配はしなくていいよ」
「……う、うん……」
逢いたいとは、思っていたけれど。急に現実にされると、不安のほうが大きかった。
式部卿の宮時平親王。綾音はその昔、時平ちゃま、などと軽く呼んでいたけれど。
――一体、どんな方になっているだろう……。
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