二十一.



 宣耀殿へ帰り着くなり、綾音は兄に詰め寄った。

「ねぇ兄上さま、どうして時平様がいらっしゃったの? 私……っ、誤解されたっ」

 明け方に、春宮の寝室から出てくるその現場に居合わせて、どんな言い訳が出来るって言うんだろう。

(……碁を、打っていただけなのに)

 時平は酷く傷ついた顔をしていた。手負いの獣みたいな、怖い、顔を。

「……いや……。もう、帰りたい……」

「綾音」

 貞成はぽんと綾音の頭に手を乗せた。

「……こうなってしまったからには、お前は春宮妃となる事だけ考えろ。時平さまの事は、忘れるんだ」

「……」

 乗せられた手が、酷く重たく感じられた。

「綾音?」

 綾音は身動きできなかった。時平に良く似た春宮を、綾音はとても素敵だと思った。でもそれは。

(時平さまに似てたから……!)

 時平に逢いたいという思いが込み上げて、ぼろりと涙となって溢れた。

(もう、会えない)

 時平に嫌われてしまった。あの時の、時平の表情が瞼から離れない。



「……綾音……」

 貞成は綾音を覗き込むようにして、何度も頭を撫でた。

「嫌い……」

「何?」

「春宮様なんて、嫌い……っ」

 そのまま、綾音は突っ伏した。

「綾音、頼むからそれだけは口にするな! 誰かに聞きとがめられでもしたら」



「その通りですわ」

 びく、と身を震わせて、顔をあげる。

「三波……」

 青い顔を引きつらせ、辺りの様子を伺いながら、すす、と部屋へ滑り込んできた。綾音の前にしゃがみこむと、じっと綾音を見つめてくる。

「そのようなこと、決しておっしゃってはなりません」

「……っ。……ひくっ」

 誰も綾音の味方にはなってくれない。もうこのまま、時平とは一生逢えないのかと思うと、綾音は目の前が真っ暗になった気がして、後から後からこみ上げる涙を止めることが出来なかった。

 三波は綾音の手を優しく撫でた。そしてため息を一つついて、切り出した。

「今日より三晩、春宮がこちらへお通いになります」

「……」

「何!」

 貞成は弾かれたように一歩三波へ詰め寄った。

(どういう、事……)

 綾音にはすぐに理解できなかった。しかし三波はもう一度ゆっくりと、続けた。

「三晩、お通いになります。……どういう意味か、分かりますね? 桜の君」

(三晩、通う……)

「春宮様なのに……お通いになるの……?」

 そんな事を気にしている場合ではないのに。何か他人事のような気がして綾音は口走っていた。春宮程の身分なら、男が通う通い婚の時代とはいえ、妻が春宮の寝所を尋ねるのが普通なのだ。

「桜君はちゃんと来てくれるか不安だから、自分が行くと。おっしゃってましたわ」

「そんなの……!」

 来いと言われれば、行くしかないのに。断ることなんて、初めから許されていないのに。それで気を回しているつもりなのかと、綾音は酷く腹が立った。

「私は……どうすればいいの……」

「私共貞観殿の女官にお任せ下さい。急なことですから、中納言家から女房を呼ぶのも大事でしょう。桜君様はただ、こちらで気を落ち着けて、お待ちになれば良いのです」

「貞観殿の皆さんが……? ……春宮のご命令なの?」

 三波はゆっくりとうなずいた。

「春宮は、とても気を使われて、全て手回しされていますわ、桜君さま。何も不安がる事なんて無いんです」

 三波は知らないのだ。

 綾音がどんな気持ちでこの宮中へやって来たのか。はじめから春宮の元へ嫁ぐつもりでやって来たと思っているのかもしれない。

 貞成がすっと跪いてもう一度綾音の頭に手を載せた。

「綾音、俺は一度屋敷へ帰る。直ぐに父にも知らせなければ。急なことだが、呼べるようなら、女房も呼び寄せる。誰か希望があれば聞くぞ」

「……」

 綾音は返事が出来なかった。誰も。誰も助けてなんかくれない。父上様も、兄上様も…………時平様も。綾音は激しく首を振った。

「……綾音。また夕刻に来る。気を落ち着けて備えるんだ。こんなに晴れがましいことは、無いんだから」

 貞成はぽんぽんと、綾音の頭を叩いて、立ち上がった。

「では、くれぐれも宜しく頼みましたよ、三波殿」

 貞成はすっと頭を下げて退出していった。

 

「さ、涙をお拭きになって。急なことで昂ぶられるのは分かりますけれど。今、夏木さんをお呼びしますわね。私はお衣装やら調度やらの準備をしなければ」

 三波はてきぱきと綾音の顔を布で拭い、辺りを見回して足りない調度類を数えると、夏木を呼ぶために下がって行った。



「……っ」

 拭いてもらったばかりの涙がまた、こみ上げる。綾音には、ただただ、涙を零すことしか、出来なかった。





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