二十二.



 綾音はぼんやりと宣耀殿の部屋の奥でうずくまっていた。

 あの後、三波の指揮の下、湯殿へ連れ出され、蘇芳の小袿を着せられて、嗅いだことも無いような複雑な香を焚き染めさせられた。

 夕刻にやっと戻って来たこの部屋には、見たことも無いほど豪奢な几帳、脇息、髪箱、鏡台……調度類の数々が並べられていた。

 その真ん中に座らされて、後はただ時間が過ぎるのを待つだけ。

 逃げ場も無く、ただ、時間が止まってくれることだけを願っていた。

「姫さま、……あの、春宮様は、とてもお優しそうでしたわ」

「……」

 側に控えている夏木の言葉も、何の慰めにもならない。……むしろ。

「それに、あの、式部卿の宮さまに……」

 言いかけてまずいと思ったのか、夏木は口をつぐんだ。似ていると、言いたかったのだろう。

「……ねぇ夏木、一人にして」

「でも……」

「お願い」

 それでも夏木は離れようとしなかった。

「……いいえ。こんな時ですもの、側にいます」

 いやにきっぱりと言うのが、酷く綾音の気に障った。

「なによ! じゃあ、夏木が結婚すればいいじゃない!」

「っま、まぁっ、何を……」

「どうして、こうなっちゃうの……っ」

 夏木にあたっても仕方ないと分かっているのに、止められなかった。

「ねぇ夏木……私……嫌だよ……」

 最後の方はごく小声で、綾音は言った。

「姫さま……」

 困った顔をしながら、夏木が綾音の手を取る。



 そこへ、不意に衣擦れの音が近づいてきた。躾の行き届いた女官にしては、いやに高い、足音。

「桜君様。いらっしゃいますの」

 ふっと漂う、梅香の薫り。

 下げてあった御簾を押しのけ、つん、と済まして立つ風情はとても美しくて、ひと目で彼女が身分の高い姫だと分かった。……しかしそのような高貴な姫が、先触れもなく突然現れるなど、異常事態ではあるのだが。

「あ、あのぅ……どちらさまでしょう?」

 夏木がおずおずといざり出る。

 現れた姫君は夏木を無視し、さっさと部屋の奥、綾音の居る几帳の前まで来ると、勝手に腰を下ろして居住まいを正した。

「私、桐壺に住まっていますの」

「……えっ」

 桐壺といえば、春宮の元へ嫁いだ一番古い姫、皇子さえ設けられれば次の御世での中宮筆頭候補、右大臣家の一の姫である。

「あなた、桜君様? ……式部卿の宮とご結婚されると、一度は伺っていたのですけれど」

 桐壺は緋扇をぱらりと開くと、その向こうからじっと綾音を凝視した。

「……」

「……ちょっと、ご機嫌はいかがかしら? お返事くらいしても宜しいんじゃなくて?」

「……あ、あの……、私」

「中納言家の姫君でございましょう? 違いまして?」

「いえ、その……それは、そうですけど……」

 桐壺の勢いに押されて、綾音は上手く返事が出来なかった。

「ああもう、はっきりお話もして頂けないのかしら。私真相を確かめたくてこうして参ったのです。どうしてこの度のような事になりましたの?」

「そ、そんなの……」

 一方的にまくし立てられていた綾音だが、この姫が、春宮との結婚を快く思っていない事だけはなんとなく伝わってきた。

「春宮の元には、この私の他にも内大臣家の姫が一人、大納言家の姫が一人いらっしゃるのです。大変申し上げにくい事ではありますけれど、あなたのご身分で入内というのはあなた自身の御身のためにも宜しくないと察せられますわ」

 申し上げにくいと言う割には非常にすらすらと桐壺は言った。

「わ、私だって、なんでこうなっちゃったのか、分からないんです!」

 ようやく綾音は吐き出した。

「……私だって、本当ならもう、式部卿の宮さまと、結婚してた頃なのに……」

 あら、と意外そうに桐壺が目を見開いた。

「……あなた、望んでらっしゃらないのね」

「……」

「そうね、式部卿の宮もあなたに大層ご執心でしたもの。どうして春宮はこんな無茶なことをなさるのかしら……」

 そんな事、綾音の方が聞きたかった。



「あの、桐壺様!」

 さすがに桐壺単身で尋ねて来たわけではないらしい。渡殿の方に控えていたらしい桐壺付きの女房が声をかけてきた。しかしどうしたことか、酷く慌てた様子である。

「今、春宮様付きの待従の君さんが、春宮がこちらへいらっしゃるって……」

「まぁ、何ですって!?」

「ええっ?」

 綾音は血の気が引く思いがした。春宮が訪れることは聞いていたが、それにしても早すぎる。まだ時刻は申の刻(四時頃)。春宮が訪れるのは夜も深まった戌亥(いぬい:十時頃)あたりと、聞いていたのに……。

 桐壺は青ざめて立ち上がった。

「何てこと。さすがにこれは叱られてしまうわ……っ、伊予、戻りますわよ、早く……」

「でも、桐壺様、もう、そこに」

 伊予と呼ばれた女房は泣きだしそうな声だった。



「その必要はないよ、桐壺」

 春宮の声がして、桐壺は扇を取り落とした。





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