二十三.
桐壺の落とした扇を拾い上げて、春宮はふぅ、と大げさなため息をついた。どことなく意地の悪い笑みを堪えているようにも見える。
「全く困った人だね、あなたは」
手渡された扇を握り締めて、桐壺は視線をそらすように顔を伏せた。
「まさかもう、嗅ぎ付けるとは。露顕までは宮中でも限られた者しか知らない機密事項なんですよ」
「わ、私、こちらの姫がいらしてから、お噂だけは良くお聞きしますのに、一度もお会いになれないものですから、ですから尋ねただけですわ……」
「だからといって、こんな訪問は非常識だね。貴女ほどの人が分からないとは思えないな。慎みなさい」
「ま、まぁ……っ」
桐壺はいよいよ顔を赤くしてうつむいてしまった。
「まぁ、貴女の気持ちは嬉しいよ……しかし私には皇子を望む声が多くてね。それで今回のような事になったんだよ。貴女なら分かるでしょう、堪えてください」
桐壺は目を見開いた。
「な、なんてことを……! それは余りに酷い言い様ですわ! 何も今、この場で、口に出すような事ではありませんわ!」
桐壺は綾音の方に視線を落とし、春宮の顔と見比べた。春宮は、まさに今日結婚を控えている姫に対して、はっきりと、子供を生ませるための結婚だと、言い切ったのだ。綾音を見る桐壺の目は気遣わしげに細められている。
綾音は余りの事に声を発することも出来なかった。目の前が暗く、頭がくらくらして座っているのも辛かった。優しそうに見えた昨晩の春宮は、一体、なんだったのだろう。もう、訳が分からなかった。
「ま、時平が目をつけた姫だ。間違いはないだろう。……時平には悪いことをしたが、何、他に姫はいくらでもいる。貴女も、時平には妹の三の姫をと薦めていたじゃないか」
「時孝様!」
桐壺は春宮の名を叫んだ。
「一体何をおっしゃってますの!? それとこれとは話が違います!」
きっと春宮を睨む桐壺の形相は怒りで凄まじいものになっている。
「私、私、時孝様がここまで情けを知らない方とは存じ上げませんでしたわ! ……桜君さま」
桐壺は綾音の前に立てかけてあった几帳の内にするりと滑り込んで、綾音の手を握った。初めてまともに顔をつき合わせて、桐壺は気の毒そうに眉を顰めた。綾音の目が涙で赤くはれているのを見咎めたらしかった。
「まぁ……まだこんなあどけない姫君でしたのね……。私がこちらへいらしたばかりに、要らぬ心痛を与えることになってしまいました。……ごめんなさいね」
間近にみる桐壺の春宮妃は本当に美しく、綾音はこの人の気分を害した事を申し訳なく思った。
「桐壺さま……」
「さあ、桐壺」
春宮が割って入り、桐壺の手を取って立ち上がらせた。
「もう帰りなさい。送っていこう。……桜君、私はまた夜に来ます」
綾音はうな垂れたまま、返事もできなかった。
桐壺は春宮をきっと一瞥し、それから綾音のほうへ頭を下げると、春宮に引きずられるように退出していった。
静寂が戻ると、もう、日が沈みかけていた。
「姫さま……」
夏木が泣き声で声をかけてきた。
「夏木は、何も出来なくて……姫さま、どうか今少しだけでも、心を休めてくださいまし……」
綾音はじっと項垂れていたが……やがてそっと、顔を上げた。
「……逃げちゃおうかな」
ぎょっとして夏木が青ざめる。
「えっ、ひ、姫さま、そっそれは……っ」
「ごめん、冗談だよ……」
綾音はくす、と笑った。それだけは出来ない。父にも兄にも、迷惑がかかる。いや、父がようやく掴んだ中納言の地位そのものが、終わってしまうだろう。それにこの時代、女一人で何処へ逃げることも出来はしない。
「……でもね……」
綾音はすっと立ち上がると、御簾の外へ出て夕空の見える端近まで寄った。
「もう一回だけ……、時平様に、逢いたいなぁ……」
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