二十四.
夏木に借りた袿を被り、綾音は足早に宮中を駆けていた。
時平がまだ宮中に留まっている、今は文殿(ふどの:書庫)の方にいるはずだ、と夏木が調べてきてくれた。
春宮がいらっしゃる戌の刻までには必ず戻ってくださいね、と言って送り出してくれたのだ。
「でも……」
最初、綾音はためらった。しかし夏木は自ら着ていた袿を脱いで、綾音に被せてくれまでした。
「行って下さいまし。今行かないと、後悔しますわ、ここには、私が残りますから、お早く……!」
思いがけない夏木の心遣いに感謝して、綾音は宣耀殿を後にした。
時平様……!
逢っても、もうどうにもならないかもしれない。それでも、ひと目でも良いから、逢いたかった。
宣耀殿から文殿までは遠い。慣れない簀子縁(すのこえん:縁側)を歩き、幾つもの渡殿を進んでいった。なんども迷いそうになりながら、ようやく文殿へたどりついた頃にはすっかり日もおちていた。
(どうしよう、入ってもいいのかな……)
蔀度の格子の外から様子を伺うと、中には数人の人の気配がする。仮にも御匣殿の自分がこんな風に宮中をうろついているなどおかしな話だ。今は夏木の袿をかりているから、女房という事にするとして、うまく時平だけ呼び出すにはどうすればよいだろう。
考えながらうろうろとしていると、がた、と音がして格子が上げられた。
「どうされました、女房殿」
見たことも無い若い公達だった。見たことが無いのは当たり前で、綾音は公達などほとんど目にしたことが無いのだ。
「あ、あの……、えっと」
「最近いらした方かな、私はよく宮中へ出入りしているが、お目にかかった事がありませんね」
人懐っこい華やかな笑顔を向けてくる。
「えと、あの、はい、夏木っていいます。この間来たばかりで、あの……」
公達はくく、と笑った。
「私は頭の中将です。ご案内しましょう、女房殿。どちらへ行かれたいのです」
「えっと……あの、文殿でちょっと、探し物を……」
「文殿で? ……では、手伝いましょう」
「えっ……でで、でも、あの……」
「この中にあるのは漢文が多い。女性が見分けるのは大変でしょう。……それに、私はこの後何も予定が無くてね。寂しいと思っていたんです。お勤めが終わってからで構わない、良ければ一緒に月でも愛でて頂けませんか」
「……いえ、その……」
頭の中将の微妙な言い回しに気づかなかった綾音は、ただ、今は月どころじゃないのに、と困惑していた。
「さ、早く用事を済ませましょう」
そう言って、文殿へと招き入れてくれる。中に時平が居ると思うと、綾音は一刻も早く逢いたくて、素直に頭の中将の後へ続いた。
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