二十五.



 桐壺にはいつも梅香が漂っている。主である桐壺女御が好んで使っているからだ。

 時刻は酉の刻(夕方六時頃)。女主人は不機嫌そうに女房に髪を梳かせていた。

「私、今日ほどこの後宮へ上がった事を後悔した日はありませんわ!」

「まぁ……、そのような事」

 髪を梳いていた女房の伊予は困り果てつつ相槌を打った。桐壺は伊予の様子など気にもかけず、ぴしりと緋扇を閉じて床を打った。

「私は構わないのです。右大臣家に生まれついたときから、春宮妃になる運命、それを誇りに生きて参りましたし、嫌だと思ったことなど一度もありませんわ。何人もの妃と比べられ、寵を競うのも覚悟の上。でも、あんな、不幸になるのが見えている姫まで嫁がせるなんて! まして、あの姫は春宮の弟宮と恋仲ではありませんか! それを引き裂いてまで妃に上げようなんて、どうかしています! ああ、一体春宮は何を考えているのかしら!」

 一息に怒鳴って、それからふぅとため息をついた。

「ま、まぁ、でもあの……桐壺様、弟宮の式部卿の宮さまは、桐壺様の妹君の三の姫様とお引き合わせしたかったのではありませんでしたからしら?」

「伊予! あなた何にも分かってませんのね! あれは単に式部卿の宮をからかうのが楽しかっただけです!」

「……」

 伊予が何も応えることが出来ず絶句していると、桐壺はまた一人で続けた。

「私、こちらへ嫁ぐ前は、春宮がどんな人物でも良かったのです。醜かろうが、少しくらい人格が破綻していようが、春宮であればそれでよかったのです」

「ま、まぁ……」

「でも実際にお会いした春宮はとても素敵な殿方でしたわ。私には勿体無いくらいの素晴らしい殿方ですわ。ですから私、春宮を一人の人物として……尊敬していましたし、伴侶として……愛していたのです! なのに!」

 一旦は弱まった口調がまた高ぶり始め、ばんばんと床を打つ緋扇が折れてしまいやしないかと、伊予は気が気ではなかった。……だから気づかなかったのだ。



「それは初耳ですね」

 すぐそこの廂の間に春宮その人が立っていた事に。



「まっ、まま、まぁっ!!」

 さすがの桐壺も取り乱して、真っ赤になった顔を緋扇で隠しながらずるずる後退った。拍子に脇息を倒してしまい、ついでに側に置いてあった高坏(たかつき:食事を置く台)まで倒して、がたがたがたたんっと派手な音を立てる。

「きゃ、きゃぁっ、……い、伊予っ、早く、片付けて……」

 春宮は愉快そうに笑ってその様子を眺めている。

「やぁ、今日はあなたの意外な面ばかり見ているね」

 言いながら春宮は機嫌よさそうに桐壺に近づいて、勝手に目の前に腰を下ろした。慌てて脇息を直したり席を作ろうとしたりしている伊予を見上げ、

「後はいい、こちらでやっておくから、退がってくれるかな」

 と声をかけると、伊予はあからさまにホッとした顔をして、深く一礼すると退って行った。



「さて」

 桐壺に視線を戻し、春宮は意地悪く笑った。桐壺は開いた扇で顔を隠したままうつむいている。

「いつ訪れてもあなたはいつも冷静で、余裕の微笑みを浮かべてばかりだと思っていたのに。……今日は心乱れているようですね」

「……」

「どうしてかな?」

「……」

「答えて頂けないのですね、……愛しているとまで言って頂けたのに、残念な」

「まっ……、そ、それは……っ」

 桐壺が思わず顔をあげると、春宮はにっこりと笑って桐壺の頬を手の平で挟んで抑えた。

「この顔が見たかった」

「……っ」

 桐壺は払いのけるようにして春宮から顔を背けた。

「ど、どこから聞いて居ましたのっ?」

「くく……っ、あなたが我が弟をからかって楽しんでいるという、驚くような事実を告白していた辺りからです」

 桐壺は先ほどまで赤くしていた顔をさっと青ざめさせた。春宮は愉快そうに笑っている。

「……本当に、新鮮だなぁ。今日は私がこちらへ訪れないと思って、安心しきっていたんでしょう?」

「……そ、それは……っ、そう、今夜はこのような場所に来ている場合ではないんじゃありません事? 宣耀殿の方がお待ちかねのはずですわ!」

「お、ようやくいつもの口調になりましたね」

「か、からかうような事ばかりおっしゃって……」

「そう、からかってるんですよ、私は」

「えっ」

「全部、嘘です」

「……?」

 春宮の言わんとしている事が理解できず、桐壺は怪訝そうに眉をひそめた。

「あの……時孝さま、私、情け無い事ながらおっしゃられてる意味がよく分かりませんわ……」

「うん。だから、中納言の姫を妻に迎えるという話、あれは嘘です。あなたには伝わるように仕組みましたけど」

「……は、はぁ……?」

「今日はあなたの意外な面がたくさん見られた。これは一芝居打ったかいがありましたね」

 ぱちり、と春宮はウインクした。

「ま、まぁ……まぁ……、それでは、どこからどこまでが嘘だったとおっしゃいますの? あの、中納言の姫君の涙、あれも嘘だったと……っ!」

 桐壺は緋扇をぎりぎりと握り締めて、まただんだんと顔色が赤くなってきた。

「いいえ、あれは本当ですよ。……あの姫にも、悪いことをしてしまった。……まぁ、向こうは向こうで、時平が上手くやるでしょう」

 桐壺は直ぐに合点がいったらしく、きらりと目を光らせた。

「では、今夜あちらを訪れるのは時孝さまでなく……式部卿の宮と、そういう事ですのね?」

 春宮はくすくすと笑いながら、うなずいた。

「あなたは本当に話が早い。時平とは大違いです」

 ひとしきりくすくす笑った後、春宮はふと真面目な面持ちになった。桐壺はまだ不満そうにぶつぶつ言っていたが、

「咲子姫」

「は、はい」

 名前を呼ばれて、思わず居住まいを正した。

「私はもう時期、梨壺から清涼殿へ移ります。あなたにもこの桐壺から弘徽殿へ移って欲しい」

「えっ! まぁ……それでは」

「ええ、父がとうとう譲位をご決断されました。来月には、私は帝となります」

 桐壺はじっと春宮を見つめ、それから深々と平伏した。

「……おめでとうございます……」

「新春宮には時平が立つ。中納言の姫の入内の話はあながち嘘ではないんですよ。ですからあの姫を後宮へ呼んだのです」

 言いながら、春宮は桐壺の手を引いて抱き寄せた。

「本当は、私と咲子姫の間に、男のややが出来れば、一番良いのですが」

「ま……」

 頬を染めた桐壺が返事をする前に、春宮はにっこりと微笑んでその唇を塞いだ。





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