二十六.
勇ましくも主人の綾音を時平の元へ送り出したものの、結婚のための調度が並べられた広い部屋のど真ん中、一人待つ身の夏木はついつい弱音を吐いていた。
(ああ、姫さま……! 早く戻ってくださいまし……!)
いつ誰の訪れがあるか分からない。誰かが尋ねてきた時の言い訳など、何も考えていなかったのだ……!
まだ時刻は酉の刻。春宮が再びこちらを訪れるのはおそらく戌亥の頃だから、まだ余裕はある。しかしもし何かの都合で先ほどのようにひょっこり春宮が現れたら、と思うと夏木は気が気ではなく、一人でうろうろと室内を歩き回っていた。
そこへ、渡殿をわたる足音が聞こえた。冷や汗を吹き出して、夏木の動きが止まる。
「……綾音、いるか」
綾音の兄、左近の将監貞成の声である。
(そういえば、夕方に参るって……! ああ……)
夏木はだらだらと冷や汗を流しながら諦めてその場に平伏した。
「綾音? ……ん、夏木か。綾音はどうした」
「……」
「夏木! 綾音はどうしたと聞いているのだ!」
貞成の声が険しくなって、夏木は震え上がった。
「あの……ふ、文殿のほうに……」
「文殿? なぜそのようなところに……!」
貞成はすぐに踵を返した。直ぐにも文殿へ駆けて行きそうな気配だったのに、しかし簀子縁のところで足を止めた。
「……?」
訝しく思って夏木が僅かに顔をあげると、もう一人、見覚えのある公達が貞成の前に立っていた。
「式部卿の宮……。何故、こちらに」
驚いた貞成の声がする。しかし驚いたのは夏木も同じだった。綾音を送り出したのは、時平その人に引き合わせたい一心だったのだから。
「……外してくれないか、左近の将監。今日ここを訪れるのは父も兄も公認なんだ」
「え……っ」
「……ったく、あの兄上と来たら、俺だけじゃなく左近の将監までだましやがって……」
「ど、どういう事ですかな」
「良く聞けよ、綾音は春宮妃になる。だが兄上の妃じゃない。兄は新帝、俺は新春宮になるんだ。綾音は俺の妻になる」
「……っ」
驚いて口の聞けない貞成に構わず、同情を求めるように時平はぶつぶつと愚痴った。
「俺だって不自由な春宮になんかなりたくなかったんだけどさ……、綾音を盾に取って、嫌ならこのまま新帝の更衣にするなんて言うんだぜ、ひどい話だろ」
「……なっ」
「……あ、その方がお前には嬉しいのか……。や、でもそれだけは駄目だ。そーいう訳で、障害の少ない今のうちに綾音を妻にする事になった。春宮になってからじゃ、大臣家の連中が黙ってないからな」
「さ、左様、でしたか……」
「あ、ちなみにこの話、お前の親父の中納言は知ってるぞ」
「! ま、まさかそんな事は……! わ、私は先ほど、父に報告をしてきたばかりで、父はその……存じているような素振りは、何も」
「……まったく、ひでぇ話だよなぁ……。今回のことを知ってるのは父帝と兄春宮と、中納言だけ。……あ、あと三波っていう女房だけだってよ。……ま、そーいう訳だから、そこ通してくれるか」
時平はなんだかんだ言いながらも最後は嬉しそうに笑った。
「は、そ、それが……!」
「ん?」
「綾音は今、その……」
夏木は再び冷や汗を流して深く平伏し、
「綾音!?」
踏み込んでくる時平の叫び声を聞いた。
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