二十七.



「どうぞ、女房殿」

 頭の中将に引き入れられて、綾音はきょろきょろと文殿の中を見回した。……高く積み上げられた書物のせいなのか、埃の臭いが酷い。

「おう、頭の中将、帰るんじゃなかったのか」

「ええ、ちょっと用事ができましてね」

 見知らぬ公達が親しげに頭の中将に話しかけてくる。頭の中将がちらと綾音に視線を向けると、その公達は苦笑いのような笑みを浮かべた。

「は、そうか。じゃあ俺はそろそろ退出しようかね、おい、行くぞ」

 公達は近くに居た童に声をかけて、文殿を後にした。

「……誰も、居なくなってしまいましたね」

 頭の中将が綾音の肩に手を回してきた。

「えっ……あ、あの」

 すす、と頭の中将から離れて、綾音は文殿の中をもう一度見回す。

「ほ、他に人は居ないんですか? あの、奥のほうとか……」

「さぁ、さっき私が見たときには居ませんでしたよ」

「え、そんな」

「おや、探し物は書物でなく人でしたか?」

「えっと、その」

 頭の中将はまたくすくすと笑った。

「では、奥のほうへ行きましょうか。こちらへ」

 さりげなく手を握り、綾音を奥へと導いてゆく。

「あ……っ」

「おっと」

 積まれた書物を避けようとして、綾音がよろめくと、頭の中将はそっと綾音の腰の辺りを抱いた。

「や、あの、す、すみま……」

 はっとして離れようとしたが、頭の中将の腕は離れなかった。

「ね、誰も居ないでしょう」

 しん、と静まり返った書庫。積み上げられた書籍の裏へ回っても、誰も、居なかった。

(……時平さま……。どこにいっちゃったんだろう……)

 綾音の目に涙が浮かんだ。

 決死の覚悟でここまで来たというのに。

「そんなにがっかりしないで、どなたのお使いですか?」

「……」

 がっかりした気持ちと同時に、腰に回された頭の中将の腕が酷く気になった。悪い人では、無いと思うのだが……。

「……質問を変えましょう。どちらの姫君であらせられますか?」

「えっ」

 綾音は驚いてまじまじと頭の中将の顔を見た。時平とは違うが、整った凛々しい顔立ちの公達。余裕の笑みを浮かべているのが、なぜか綾音は恐ろしく感じて冷や汗を流した。

「ひ、姫って……」

「違いますか?」

 綾音は困り果ててうつむいた。何とか腕を払って一人で立とうと思うのに、思いがけず力強い腕はしっかりと腰を押さえて離れてはくれなかった。

「あの、離してください」

「嫌です」

 あっさり言われて、綾音はまた別の涙がこみ上げてきた。

(私、何やってるんだろう……!)

「姫君、連れない事を言わないで下さい。禁中にありながら、このように可憐な姫に出会う事があろうとは。私は夢を見ているような心地なのです」

 頭の中将はうっとりとした表情で綾音を見つめ、綾音の腰に手を回したまま、もう片方の手で綾音の手を握ってきた。

「や、やだ……。私、時平さまに逢いたいの……っ」

 ふと、頭の中将の動きが止まった。

「時平……。式部卿の宮ですか」

「!」

 何か余計な事を口走ってしまった気がして、綾音はうつむいて口をつぐんだ。

「……ではあなたはまさか……。新しくこられた、御匣殿?」





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