二十八.



 綾音は頭の中将に手を引かれて、文殿を出た。

 あっさりと素性がばれた後、頭の中将は呆れたように綾音を見下ろしてから、「送りましょう」と言ってくれたのだ。

 綾音は自分が情けなくなった。

(このまま、連れ戻されて、春宮と結婚するんだ、時平さまにも逢えないまま……!)

 しかし頭の中将は文殿を出たと思ったら、思いがけないところで道をそれた。

「え……っ」

 さっと妻戸を引いて通されたところは壁に囲まれた塗篭(ぬりごめ:物置)だった。

「あ、あの……っ」

 振り返ると、頭の中将はもう後ろ手に妻戸を閉めていた。

「ちょっとからかうつもりだったのですけどね。相手が御匣殿とあっては……私も本気になってしまったな」

「な、何言ってるの……?」

 恐ろしくなってじりじりと後退ったが、直ぐに冷たい壁にぶつかった。

「御匣殿……貴女は今、都中の噂の的なのですよ……ご存知ですか?」

 綾音はぶんぶんと首を振った。頭の中将はくすりと笑って、ゆっくりと近づいてくる。

「まず……今まで浮いた話の一つも無かったあの式部卿の宮が初めて見初めた姫だということ……この時は都中の女人が悲鳴を上げたのですよ。さらに一時は結婚も決まったと噂があったのに、こうして後宮に召し上げられた事。春宮が弟の恋人を見初め……諦めきれずに後宮へ上げたのだろう、直ぐにも更衣にするつもりなのだろうと、誰もが思っていました。それほどまでに、魅力的な姫なのだろう、ともね。……しかし、こうしていつまでも何の沙汰も無く、貴女は御匣殿として仕えている。……不思議ですね。不思議で、興味深い」

「……っ」

 どれも、本当のような夢のような話で、綾音には自分の事と思えなかった。

「し、し、知らないわ……っ!」

 頭の中将が一歩近づくたび、嫌な圧迫感が増して、綾音は精一杯顔を背けて叫んだ。

「貴女のことでしょう? 御匣殿」

「そんなの、違うもの! わ、私は、女房です! もう、戻らなくっちゃ」

 くすくすと頭の中将が笑う。

「そんな言葉遣いの女房は、この宮中にはいませんよ。御匣の姫君」

 綾音は泣き出したいのを必死で堪えた。

「な、なによ……!」

 キッと顔を上げて睨もうとすると、もう目の前に頭の中将は居た。

「怒らせるつもりも悲しませるつもりも無いんです。……姫」

 そっと頬に手を当てられて、綾音はぞっとした。

「やぁ……っ、時平、さま……」

 慌てて顔を背け、叫ぶ。

「……。式部卿の宮と恋仲というのは、本当のようですね……」

 す、と頭の中将が手を降ろした。

「……残念です。意外と鼻が利くらしい、あの宮は」

「……?」

 ばたばたと渡殿を走る音が近づいていた。それと共に、あちこちの妻戸や格子を騒がしく上げる音。

 ばん! とけたたましい音を立て、とうとう塗篭の妻戸が引き開けられた。



「あ……、桜の君!」

 息を切らして駆け込んできた、時平。

 ずっと見たかった顔に出会えて、綾音の目から堪えていた涙がぽろぽろと零れた。

「時平さま……」





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