二十九.
「てっ、てめぇ、頭の中将! あ……、桜の君に何しやがった!」
頭の中将はくるりと綾音から時平のほうへ向きを変えると、ふっと笑って笏(しゃく)を口元へあてた。
「残念ながら、何も。桜の君とおっしゃるのですね、こちらの女房殿は」
「!」
時平の顔をみたとたん力が抜けて座り込んでいた綾音は、驚いて顔をあげた。先ほどまで、御匣殿と、綾音の正体に気づいていたはずなのに。
「てめぇ、とぼけんな! お前のことだから分かっててやったんだろ!」
「さぁ、何のことでしょう? こちらの方がご自分で女房だと……そうおっしゃっていたのですよ、ねえ?」
頭の中将はそういって首をかしげ、綾音を見下ろした。
「えっ……。あ、あの、言いましたけど……」
一瞬驚いたように目を見開いて、そのあとくくっと楽しげに頭の中将は笑った。
「……ね、式部卿の宮」
「……っ」
時平は今にも頭の中将に殴りかかりそうな勢いで、綾音はただ様子を見ているしか出来なかった。
「それともこの方はどちらかの……たとえば御匣の君だったりするのでしょうか。それならば悪いことをした」
「……っ! お、お前なぁっ!!」
「相変わらず口がお悪いですね、宮。お気をつけなさいといつも言っているのに」
頭の中将は、春宮や時平の母・皇后の出自である左大臣家の末の息子である。歳は三つほどしか違わないが、時平の叔父にあたるのだ。
「ふざけんな腐れ中将! あっちこっちに手ぇだしといてまだ足りねぇかよっ」
怒りに任せて時平は頭の中将に掴みかかった。
「暴力沙汰は好まないのですが……売られるとあらば買いますよ、宮」
頭の中将は、手にしていた笏をぽいと投げ捨てた。
暴力など似合いそうに無い頭の中将の思いがけない行為に綾音はぎょっとした。意外に血の気の多い人物なのかもしれない。それに、頭の中将は時平よりも一回り大きい。綾音は酷い不安に駆られた。
「上等だ!」
「や、やめてっ! やめてよっ!」
綾音は思わず立ち上がり、二人の間に割って入った。するとすぐ、がつんっと額に強い衝撃を受けて弾き飛ばされた。
「きゃぁ……っ」
時平が振り上げた腕に、ちょうどぶつかったのだ。
「あっ……綾音っ!?」
時平が駆け寄ってくる。
「い、痛……」
「ごめん、綾音……っ、大丈夫か」
額はずきずきしていたが、やっと時平が自分の方を向いてくれた事が嬉しくて、綾音は微笑んだ。
「……ん、大丈夫……。……ひくっ……やっと逢えた……時平さま……っ」
思わずその袖に縋りつくと、そっと腕を回されるのを感じた。
「ごめん綾音……、ごめんな……」
春の匂いが懐かしくって、綾音はわんわん泣いた。
「……」
喧嘩するにも気がそがれた頭の中将はそのまま二人を置いて塗篭の外へ出た。そこで、慌てた様子の左近の将監貞成と出くわした。
「こ、これは中将殿」
ぱっと貞成が跪く。頭の中将は貞成の上司にあたるのだった。
「あぁ……、兄になるのか、君は」
「は?」
「あぁ、今は行かない方が良い。そうだ左近の将監、酒は活ける口か」
「は、まぁ、ですが、今はその……」
「妹君の事なら心配いらないよ。そこの塗篭で式部卿の宮と取り込み中だ」
「えっ……」
貞成は顔を引きつらせて塗篭のほうへ目をやった。
「複雑そうな顔をしてるね……。丁度いいだろう? 一献付き合ってくれ。今夜は月を愛でるのには好い晩だ」
「……は、はぁ」
ぽんぽんと肩を叩かれて、貞成は立ち上がり、二人月見酒と洒落込む事になった。
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