四.



「姫さま、どうしましょう!」

 バタバタと駆けてくるのは女房の夏木である。この娘は綾音の乳母(めのと)の子で、つまり綾音とは乳姉妹の関係になる。いくつになっても、落ち着き無いなぁ……などと綾音は密かに思っているが、あまり人の事は言えないので黙っている。

「……どうしたの?」

 今日は、一生懸命式部卿の宮への返歌を、無い知恵捻って考えたので、綾音は頭が痛かった。まぁ、結局その返歌も吉野に採用してもらえず、吉野が考えた素晴らしいお歌を送る事になったのだけど。もうこれ以上考え事をしたくなくて、綾音は寝るつもりだった。

「この間もいらした、あの文使いの方が、どうしても姫さまに直接会って、文をお渡ししたいんですって!」

「……はぁ!?」

 夕刻に、兄に返事を届けてもらったばかりなのに、もうその返事が来たという。しかも、文使いが届け先の女性に直接会いたがる、なんて、綾音は聞いた事が無かった。

「……どういった方なの、その文使いの人って」

 普通文使いなんていうのは、小間使いの男がやる仕事なのだ。しかし夏木は立派な公達だと言っているから、そういう身分の者では無いらしい。先ほど綾音が兄に頼んだように、時には位の高い人が頼まれる事もある。

「さぁ……。伺ったんですけど、それは言えないとおっしゃって。人に見つかるとまずいから早く通せって言うんです」

 夏木はオロオロして、本当に困っているらしい。

 貴族の姫君に目通りを願うのに、見つかるとまずい、早くしろなんて、尋常じゃ無い。しかも身分も明かせないような者に、親の許しも無く、会うわけには行かなかった。

「だ、だめ。いくら式部卿の宮の使いでも、そんなの無理。急いで父上様に知らせて来て!」

「わ、分かりました!」

 踵を返して夏木は部屋を出ていく。すると、すぐに小さな悲鳴が上がった。

「きゃぁっ」

「な、夏木!?」

 今のは間違いなく夏木の悲鳴だ。綾音は驚いて御簾の内から飛びだした。普通、姫というのは幾重にも立てた御簾や几帳の奥に収まっていて、端近へ寄るのははしたないとされている。しかし考えている余裕などなく、綾音はとっさに渡殿(わたどの:廊下)にまで飛び出した。

 月明かりに、青く照らしだされる庭の木々、寝殿造の長い渡殿。渡殿に立つ人の姿も、青く白く、闇の中に浮かび上がる。優雅な微笑を称えた、美しい公達だった。

「……っ」

 じたばたする夏木を公達は取り押さえ、その袖で夏木の口を塞いでいる。

 慌てて綾音は袖で顔を覆った。うっかり失念していたが、貴族の姫が、公達に顔を見られるなどあってはならない事なのだ。

「だ……」

 誰か、と叫びかけたのを、公達が強い口調でさえぎった。

「静かに!」

 抑えてあるが迫力のある低い声で、綾音はビクリと身を竦ませた。

 ――怖い。

 普段、男と接する機会は極端に少ない。身の回りの世話をするのもほぼ女で、男と言葉を交わす事など父と兄くらいしかない綾音は、緊張で全身にびっしょりと汗をかいた。無意識に細かい震えが走る。

「……ただ、早く逢いたかったんだ」

 優しい声色だった。合わせるように、漂う、春の薫り。

 綾音は、袖の陰から恐る恐る、その人の顔を覗いた。しかられたようにしょんぼりした表情をしている。

「怖がらせて、ごめんな。……桜の君」

 ハッとして綾音は、顔をあげた。

 ――桜の君。

 そんな呼び方をする人を、綾音は一人しか知らなかった。普通、貴族の女性は公に名を明かさないので、綾音は「中納言義貞の姫」と呼ばれている。

 そんな綾音を「桜君」と呼んだのは。満開の桜の下で会ったから、桜君だね、と微笑んでいた、あの子は。

「……と、時平、さま……?」

 顔を隠すのも忘れて、綾音はその人を見つめた。





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