五.
もうぼんやりとしか思い出せない、幼い頃の記憶。目の前に立っている美しい人が、本当に彼なのか、綾音には分からなかった。
「ほんとに……?」
半信半疑で呟く綾音に、その人は微笑んで頷く。
「ああ、俺が時平だ」
言って、時平が手を緩めると、ぎょっとした顔の夏木は慌てて飛び退って平伏した。
綾音は呆けたように時平を見上げている。
「……そんなに見られると、照れる」
はっと慌てて綾音は目を逸らした。
「こんな所じゃ、すぐ家人にみつかっちまうだろう、中に入っても、いいか?」
こくこくと頷いて、綾音は奥の自室へ招いた。
「こっち……」
綾音の部屋は時平の、春の薫りで満たされた。綾音にその香の名前は分からなかったが、それは春を思い起こさせる華やかで爽やかな香りだった。
「夏木、火を持って来てくれる?」
部屋の中は、月の明かりもほとんど差し込まず、燭台の火が無ければ、闇ばかりだ。綾音が命じると、夏木はしずしずと頭を下げて、下がって行った。
時平が口を開いた。
「文、ありがとな」
「え?」
「返歌、くれたろ。こんなに早く返事くれるなんて思ってなかったんだ、ホントは。はは、貞成の奴を脅したからかなぁ。嬉しくってさ、つい、飛んできちまった」
「……」
脅す、って一体何を言ったんだろう。それも気になったが、なんだか目の前に時平その人がいる事がまだ信じられなくて、綾音はうつむいていた。
「……嫌だったか」
「……」
応えられなくて、綾音は身じろぎもせずに黙っている。
「俺はずっと逢いたかった」
ぴく、と綾音は肩をゆらす。その肩を、時平が熱い手の平で掴んだ。
「やっと見つけた。……ずっと、逢いたかったんだ」
闇の中で表情はほとんど見えないけれど、真摯な、切羽詰った声だった。綾音の心臓は大きく飛び跳ねた。思い出の中の男の子とは、全然違う。低い声に、大きな手の平。こんなに立派な公達が、こんなに間近で、自分に逢いたかったと囁いている。
「嫌か」
酷く、切ない声だった。綾音は顔をあげて、何か言わなくちゃ、と口を開きかけた。その口を、あ、という間に塞がれた。
「……っ」
初めての、感触。生あたたかく、せわしない息づかい。やわらかな感触は、不快なものではなかったけれど、綾音は追いつめられるような気がして、怖くなった。
綾音は必死で顔を逸らした。
――怖い。
時平のことは、嫌いではない。嫌うほど、まだ知らない。懐かしい人に会えて、嬉しかった。けれど、今の時平はあの子とは違う。何もかもが性急過ぎて、綾音にはついていけなかった。
綾音の頬を無意識の涙が伝って、頬に添えられた時平の手を濡らした。時平は切ない声をあげた。
「桜の君……」
呼ばれて、綾音はどきりとする。
「泣くほど、嫌か……」
違う。驚いただけ。言いたかったけど、声がでず、綾音は首を振った。
「……だけど、駄目だ。ずっと探してた。桜の君、ずっと探してたんだ。……俺は、あんたを俺の物にするよ。……中納言にだって、嫌とは言わせない。俺は、親王だからな」
あまりの言いようだ。あまりに尊大な、態度。思い出の男の子は、こんな事をいうような子じゃなかったはずだ。
「……と、時平、さま」
綾音はやっと声を出すことに成功した。
「私、あなたの事、よく分からない……」
それは綾音の本心だった。不意に現れた、思い出の男の子。しかし、その面影も見つけられないうちに、ただ性急に求められる。
……ただの知らない、男の人だった。
「……桜の君」
「私は、桜の君じゃないよ……。昔、そんな風に呼んでくれた男の子がいたけど、もう私は、桜の君じゃない……!」
時平は、ひどく傷ついた顔をした。
「あんたは桜の君だ! 俺の、桜の君だ……」
ずっと、恋していたんだ、と時平は言った。綾音には時折思い出すだけの、ただ懐かしい思い出。しかし時平はずっと焦がれていたんだ、と。
「……俺だけか。囚われてたのは、俺だけか……」
その声が、泣き声のように聞こえた。
「と、時平さま……」
時平は決して泣いてはいなかったが、綾音は時平を泣かせたような心地がした。
「……私……、……綾音っていうの……」
慰めるように、綾音は言った。
「……あや、ね……?」
「そう。……綾音……」
「綾音……」
貴族の女性は、普通自分の名を明かさない。明かすのは、親と兄弟と近しい侍従と。……あとは。
「綾音」
時平はゆっくりと名を呼んで、微笑んだ。その声が、宝物を見つけた時の子供のように嬉しげなのが、伝わってくる。
「うん。……よろしくね、時平さま」
綾音もようやく微笑む事が出来た。
(……やっぱり、やっぱりあの子なんだ……!)
時平という人に、綾音はようやく巡り会えた気がした。
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