六.
「火をお持ちしました」
調度良いところへ夏木が戻ってきて、燭台に火を灯した。揺らめく炎が、部屋の中を明るく照らす。
照らしだされた時平の姿を見つめて、綾音の胸は高鳴った。父は、「類を見ない美男子」と言っていたけれど。なるほど、切れ長の目に通った鼻梁、ほっそりとした面に、さらりと残した前髪が揺れて。どの女性も虜になりそうな容姿だった。さらに全身に匂い立つような色香を纏っている。
「……じっと、見るんだな」
ふっと時平が笑って、慌てて綾音は目をそらす。笑った時にだけ、あの子の面影が重なる気がした。
「……なんだか、随分変わったね、時平さま」
「そうか? ……綾音は、全然変わってないな。ひと目見て、すぐに分かった」
「えぇ。それって、あんまり嬉しくないかも」
「ははは、悪い。俺は嬉しいんだが」
「ふふ」
暖かい空気に包まれている。綾音はもう、時平が怖くなかった。
「俺、今日はもう帰るな」
「え?」
「……誰かに見つかったら、まずいだろ」
「そ、そう?」
時平を止められるような身の人は、この屋敷には誰も居ない。父も、時平の事は認めていたから、文句は言わないだろう。
「……こんな風に忍び込んで、……遊びだと思われたら困る」
言いながら、時平は立ち上がった。
「……ちゃんと、するから」
この時代の貴族の結婚は、親同士が話し合って決める。日取りが決まったら、男は三日連続で女の下へ通って、三日目に露顕(ところあらわし:結婚式)を行う。そういった儀式もなく、ただ忍んで来るような場合は、身分の低い女に対する遊び、と取られるのだ。
「今日はどうしても早く逢いたくて、先走った。……ごめんな。今度は、中納言に正式に許可を得てから、来る」
「……で、でもまだ全然……」
まともに話もしていない。
「顔が見たかっただけだから」
「そ、そっか……」
綾音は、何故か、落胆した。自分でも気づかないうちに、酷く寂しげな顔をしていた。
時平は目を細め、懐を探った。料紙を取り出して、綾音の手に握らせる。
「後で読んで」
「え?」
「照れるから」
はにかんだように笑って、時平は軽く手を上げた。
「それじゃ」
時平は満足げな笑顔で出て行った。庭木を揺らす音が聞こえる。一体どこから出てく気なんだろう……。
ぼんやりと、綾音は時平の去っていった渡殿の方を見つめていた。
「姫さま」
「わぁ、夏木、いたの!?」
突然声をかけられて、綾音は驚いて振り返った。夏木は不満げに口をとがらせる。
「ずっと控えてたじゃありませんか……」
しかしすぐに笑顔になって、夏木は声を弾ませた。
「素敵な方ですわね」
「……う、うん……」
どぎまぎしながら応える。
「ふふ、お文、お読みになりませんの?」
「え、あ、うん」
春の薫りの料紙を開く。
霞立つ 春の長日を 恋ひ暮らし 夜も更けゆくに 妹も逢はぬかも
――色良い返事を貰えたからには、恋ひ暮らすのも、限りとしたい。受け入れて、くれるでしょうか。
ぱっと顔を赤らめて、綾音はすぐに文を閉じた。
「あっ、姫さま、何て書いてありましたの!? 夏木にも、見せてください」
「や、やだ! 駄目!」
隠すようにして、後ろ手にまわす。
「ず、ずるいですぅ」
夏木はさも残念そうに言った。
「私のだもん!」
きっぱりと言って、夏木の非難のまなざしを受ける。それにしても。
(……次は、自分でちゃんと、お返事しよう……)
綾音は心に決めたのだった。
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