七.



「ふぅん、そう。オメデトウ」

 全くめでたくも無さそうに、脇息にもたれたまま、視線も合わさず春宮は言った。

 春宮の住まう梨壺には、暖かい春の日ざしが差し込んで、渡殿へ行けばのどかな空気が漂っているというのに、春宮その人はふてくされて殿舎の奥へ引き篭もっている。

「どうせ会えるわけないと思っていたのに……」

 聞こえよがしにぼそりと呟いて、目の前に座る弟宮、時平を困らせていた。

「兄上……」

 時平は、順調に中納言義貞の姫、綾音との婚約をすすめていた。結婚の日はもうあと十日後に迫っている。今日はその報告を、兄春宮にも奏上しようと、やってきたのである。ところが兄のこの態度。

「私はね、お前と違ってほとんど宮中から出してもらえる事などなかったよ。桜君なんて理想の人にめぐり合うチャンスさえない。送り込まれてきた大臣家の姫が気に入らなくても、仲良くしなきゃいけないんだ。父も母も同じ兄弟だというのに、全く不公平だと思わないか」

「はぁ……」

 また、桐壺女御あたりと喧嘩でもしたんだろうか。まずい時に尋ねてしまったな、と時平は密かに嘆息する。まったく迷惑な話だ。

「桜君は中納言の姫だったって? お前の身には少し軽いんじゃなかろうか。右大臣が、ぜひ三の姫をお前に、と張り切っていたのを、知らない訳じゃないだろう」

 冗談じゃない。時平はぶるぶると首を振った。桐壺女御は右大臣家の一の姫、つまり右大臣の三の姫といえば、桐壺の妹である。三の姫本人に会った事はないが、桐壺の妹となると、とても妻になどとは思えない。桐壺は大層な美人ではあるが、気が強く偏屈で、会う度に嫌味ばかり言われて時平がもっとも苦手としている女御なのだ。

「そ、そんな言いようは、中納言に失礼でしょう。中納言の姫は素晴らしい方です。申し訳ないが、俺は右大臣の三の姫には、興が湧かない」

「それこそ桐壺に失礼というものだろう」

 バチバチと兄弟の間に火花が飛んだ。

「中納言の姫なぞ、歌も琴も容姿も、優れているという噂は聞かないぞ。正直居るのか居ないのか、よう知らんかったくらいだ」

「それは兄上の耳に入れる奴が居なかったからだろ。たしかに兄上の元に上がるには、少々軽いだろうからな。俺には十分だ」

 時平は、つい地が出てけんか腰になる。周りを囲む女房達は、ハラハラしながら様子を見守っていた。

 確かに綾音は、歌も琴もそれなりで、特に際立った容姿でもない。人の噂に昇るような秀でたところは一つも無かった。それでも、そんな事は時平には関係なかった。ただ、綾音が好きなのだ。

 そんな弟宮をちらりと見やって、春宮は不敵に笑った。

「ふん、お前がそれほど入れ込むなら、よっぽど優れた女人なんだろうな。それに、確かに無理のある身分でもない。更衣として召し上げる事もできるな」

「な……っ」

 かぁっと時平の顔に血が上った。

「ざけんなっ!」

 思い切り叫んで、時平は立ち上がる。

「たとえ兄上だろうと、手ぇだしたら許さねぇからなっ!!」

 足音も高く、時平は梨壺を飛び出す。それを春宮の声が追った。

「久しぶりに来たのだ、桐壺にも挨拶して行けよ! あれはお前が気に入りだからな。上手く機嫌を取っておいてくれ!」

「……っ!」

 時平は足を止め、きっと兄春宮を睨み付けた。踵を返してばたばたと退出して行く。

 くっくっく、と春宮は腹を抱えて笑った。時平は春宮の、いい憂さ晴らしにされたのだ。

「中納言の姫、ね……。ぜひお目にかかりたいものだ」

 面白いおもちゃを見つけたように、春宮は楽しげに笑った。





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