九.



 やっぱり報告などしなければ良かった。後悔しながら、時平は早足で内裏を抜けた。そのまま屋敷に帰ろうと、東門へ向かっていた時である。同じく退出しようとしている人物を見かけた。

「左近の将監!」

 声をかけると、ぎょっとした様子で振り返ったのは左近の将監貞成。綾音の兄である。

「式部卿の宮さま」

 貞成は慌てて深く頭を下げた。

「頭を上げてくれ。おまえは俺の義兄になるんだからな」

「勿体無い事です」

 緊張した面持ちで貞成が顔を上げると、時平はぽんと貞成の肩を叩いた。

「お前は祝福してくれるだろう?」

「え」

「綾音のこと」

「それはもう、もちろんですとも」

 語気も強く貞成が言ってくれたので、時平はほっとした。

「良かった。味方がいないと、困る」

「それはどういう……?」

「ああ、……兄上がな。ちょっと」

「兄上と言いますと……と、春宮さまですか」

 とたんに貞成の顔は険しくなった。

「いや、正確には兄上というより……桐壺だ」

「?」

「桐壺はさ……、桐壺の妹……右大臣の三の姫とこの俺をくっつけたかったらしいんだよ」

「なんと」

 貞成には初耳だったらしい。すっと顔色が青ざめた。

「で、では妹は……」

「ああ、もうとっくに断ってるから、心配はない」

 貞成は一瞬ほっとした顔をしたが、すぐにまた顔をしかめた。

「しかし、それでは右大臣殿は面白くないでしょう」

「そうでもない。面白くなさそうなのは、桐壺だけだ。……もともと、右大臣の三の姫は、俺の元服の時に、添い伏しにしようという話があったんだ。だけど当時は姫がまだ十だっていうんで、若すぎるって理由で断った。そのまま、俺は添い伏し無しで元服しただろう。そうしたら、桐壺はいたく感動してくれたらしいんだよな。三の姫の成長を一途に待っていると、勝手に勘違いしたらしい。俺は単純に、添い伏しの姫なんて面倒で、断る理由が見つかって喜んだだけなんだが」

「はぁ……」

「ま、綾音の事は父帝も特に反対はしてないし、右大臣ももう三の姫の事は諦めてる。何も問題はないさ」

 しかし貞成はまだ思いつめた顔をしている。眉間に深い皺を刻んだまま、何事かぶつぶつと呟いていた。

「なぁ、そんなことより」

 時平は無理やりこちらに気を引かせ、貞成の顔を上げさせた。

「遊びに行ってもいいか」

「は?」

「お前の屋敷にさ」

「はぁ?」

「……逢いたいんだよ、綾音に。あと十日も待てない」

 じれったく言うと、貞成は驚いて目を見開く。

「いいだろ、夜に行くわけじゃなし。お前も同席してくれて構わない。結婚前に、妙な浮名は流さないと約束する」

「……ま、まぁ、それは構いませんが……」

 貞成は意外そうに時平を見つめた。

「随分と、妹にご執心のようで。本当に、勿体無い事です」

 時平には、今までに浮いた話というものが一切無かった。都でも随一といわれる程の美貌を持ち、歌才にも秀で、さらには親王という身の上。都じゅうの姫や女官の憧れの的である。ところが不思議なことに浮いた話がひとつも無い。男色家では無いかという下卑た噂が流れたくらいだ。

 その時平の、綾音に対するこの執着は。

「理由を聞かせて頂いても……?」

 貞成が不思議に思うのも無理は無かった。

「……聞くな。馬鹿」

 時平はふいと視線をそらし、ぼやくように言った。まだ不思議そうに眺める貞成を見返して、

「……聞きたいか」

と問いかける。

「叶うなら」

 すると、時平は寸刻目を閉じて、ゆっくりと口を開いた。

「……桜降る、鄙に逢いしも、運命なれば……」

 そこまで言って、頬に笑みがこぼれる。

「まぁ、いいだろ! ほら、早く行こう」

 時平はごまかして足を速めた。貞成は不服そうに首を捻りつつ、その後を追った。





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