十三.



「痛てぇ……」

 がらがらと走る牛車のなか、幸宗は左の頬を押さえて舌打ちした。

「今日はもう帰りませんか、幸宗さま」

 牛車の脇から吉政の声がする。時刻はもう戌の刻(夜八時頃)を回っていた。

「……そうだな、そうする…………疲れた」

 そう言って、ぐったりとうな垂れる。

(……酷い目に会った……)

 ある程度覚悟していたとはいえ、まさか引っ掻かれるとは思わなかった。あの美しかった女の顔が鬼のように恐ろしく化けるところを思い出して、幸宗は思わず身震いする。

 幸宗は付き合っている女全てとの仲を清算するべく、わざわざ別れを告げに回っているのである。

 最初から遊びの恋と割り切って付き合っている女ばかりではあったが、わざわざ参って別れ話を持ちかけるというのは、そうとう女心を傷つける行為らしい。

 二度と来ないでと怒鳴られたり、冷たい目で塩を撒かれたり……、中にはあっさり笑って手を振ってくれる女もいたが、それはそれで少々寂しい。極め付けがあの引っ掻き女だ。

「これでとりあえず五軒回りましたよ」

 吉政が文を数えて報告してくる。

(……じゃああと、十二……。自分で撒いた種とはいえ……先は長いなぁ……)

 幸宗は遠い目をして深いため息をついた。

「明日はどうされるんです、ちゃんと参内されるんでしょうね?」

「あぁ……。……どうせ宮中にも何人かいるし……」

 情けない声でぼやき、ふと吉政を見るとなにか様子がおかしい。眉を寄せて顔を赤くし、酷く複雑な顔をしていた。

「なんだ吉政、腹でも痛いのか」

「いえ……こ、これがあの幸宗さまなのかと思うと……くっ」

 とうとう堪え切れなくなったのか、吉政はくくっと笑って吹き出してしまった。

「ぐ……う、うるさいっ!! おまえ生意気が過ぎるぞ!!」

「す、すみませ……」

 しかし吉政の笑いは止まらない。頭に来てぱんっと物見を閉めると、他の従者たちまでいっせいに吹き出す気配がする。

(こ、こいつら……!!)

 幸宗は手にしていた扇を思いっきり音を立てて投げつけた。

 確かにいままで散々浮名を流してきた頭の中将のこの姿は情けないだろう。しかしもう幸宗は引き返せない。

 幸宗はあの晩の、可憐だった姫の姿を思い浮かべた。

 全てはあの姫ひとりのため。

(……絶対にあの姫を手に入れてみせる。頭の中将の名にかけて……!!)



 そして五日後。

 夫の任国へ行ってしまった備前の守の妻を除いて、とうとう幸宗は全ての女との縁を断ち切った。別れるときにこんなに苦労するのなら、もう二度と浮気な恋などするものか、これからは本気の恋一本だ、と息巻いて、はた、と気づいた。この五日というもの、その本気の姫への文を出すのをすっかり忘れていたのである。慌てていそいそと恋文をしたためていると、なんと当の姫君の方から文が届いた。



 ――申し上げなければならない事がございます。いつでも構いませんので、よろしければ今一度だけ、このあばら屋をお尋ねくださいませんか。



 文を読んだ幸宗は、もう夜も遅いというのに従者をたたき起こして慌しく叫んだ。

「おい起きろ、すぐ出掛けるぞ! 今すぐだ!!」



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