十四.
琴の音が流れていた。胸をときめかせるあの月の調べだ。うっとりとしながら短い渡殿を通り過ぎ、幸宗が部屋へ入ると、ポロン……と最後の弦が鳴って、曲が終わった。
「夢の続きを見ているようです」
声をかけると、ハッとして姫君が顔をあげる。几帳は立てられていなかった。
「まさかこのように出迎えて頂けるとは」
姫の方はぎょっとなった顔を赤くして、きょろきょろと辺りを見回している。文を届けた時間も遅かったので、まさかその日のうちに尋ねて来るとは思ってもみなかったのだろう。
「ちょ、ちょっと八重っ!! み、御几帳を……っ」
「しっ」
慌てて口に指を立てると、弾かれたように姫は口を閉じた。そんな表情が可愛らしく、くす、と笑いながら腰を下ろす。
「必要ないでしょう、姫。……私は何もしませんよ。そろそろ私の事を信じて欲しい……」
いつまでも何もしないつもりはさらさら無いのだが、今すぐどうこうする気もない。幸宗はじっくり攻めるつもりだった。
「で、でも……こんな」
「今夜は幸いにも、細い三日月です。あなたの姿も闇が隠してくれますよ」
そう言って片目を閉じてみせる。実際は燈台の明かりで部屋は明るく照らされていて、姫の姿は良く見えるのだが、そこは知らんふりをしておいた。
しばらくの間姫は顔を背けて思案しているようだったが、やがてこちらを振り向いてくれた。
「……もうどうせ、何回か見られてましたよね」
諦めたように笑った顔は、抱きしめたくなる衝動を抑えるのが困難なほど可愛らしかった。笑った顔は初めてみるのだ。しかし悟られぬようにと幸宗はぐっとこらえて、ゆったりと微笑む。
「ありがとう……姫」
すると今度は姫君は、くりくりと大きな瞳を瞬かせて、じっと幸宗の顔を見つめた。今度こそ幸宗はどぎまぎしてしまう。
「ひ、ひめ……?」
「あの……その傷……? この間は口元だけだと思ってたのに……」
姫は幸宗の頬の傷を凝視していたのだ。ぎく、として幸宗は手で傷を隠す。まさか女に引っ掻かれた傷ですとは…………言えない。
「この間は暗かったから、良く見えなかった。……そんな傷までつくってたんですね。ごめんなさい……」
しゅんとして俯いてしまう。
「あっ、いえ、ち、違うんですよ、姫」
「?」
「これはあの時の傷ではなくて……」
「? じゃあどうしたんですか?」
姫は不思議そうにきょとんとして見上げてくる。
「……や、ちょっと猫に……」
「え、猫……飼ってるんですか」
「あ、ははは、いや、逃げられてしまったんですけどね」
「わぁ、意外。猫、お好きなんですね」
姫は何を想像しているのかくすくすと楽しそうに笑った。なんとか乗り切ったと幸宗はそっと胸をなでおろす。
「それよりも、姫? こうして私を忘れずに……あなたの方から呼んでくれた」
じっと姫の目を見つめ「期待しても」と言いかけた時、姫君の方が先に口を開いた。
「あ、そうです! 私、謝らなくちゃと思って……」
「この間の事なら、良いのですよ」
「それもあるんですけど、……違うんです……」
姫は立ち上がると廂の方へ向かい、ごそごそと二回棚をあさった。そうして振り向いた姫の手には、あのときの龍笛が。
「折れちゃったんです……」
しょんぼりと俯いて、折れた笛を握り締め戻ってくる。
「このような事にしてしまって、申し訳ございません」
謝る練習でもしていたのかもしれない。くるんでいた布を広げて幸宗の前に笛を置くと、姫は両手を突いて女房がするように頭を下げた。
「いや、いいんですよ。顔をあげて。こんな笛などいくらでも代わりはある」
実際この笛は最高級の品であり、幸宗でも手に入れるのに苦労した気に入りの一品であったのだが、そんなことは今どうでも良かった。
「本当ですか?」
顔をあげた姫はまだ不安そうに眉をひそめている。心なしかその目が潤んでいるようにみえて、幸宗はくらくらしてきた。
「……本当、です」
言うと、姫はほっと胸をなでおろして笑顔になった。
「良かったぁ。本当に、弁償できないような高価なお品だったらどうしようかと思ってたんです」
本当に弁償できないような高価な品だが、それはいい。とにかく幸宗はしばし姫にみとれ……そのうち、不安になって尋ねてみた。
「あの……私を呼んでくださったのは、もしかしてこの笛のため……だけですか?」
「え? そうですけど……。あ、もしかして壊れてしまった笛をわざわざお返しするためにお呼び立てしてしまって、ご迷惑でした? す、すみません」
過度な期待をしていたわけではないが、予想以上にがっくりきた。
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