十六.
明くる日の左大臣邸。東対の屋の幸宗はまたしても浮かない顔で物思いに耽っていた。
昨夜の姫の、あの剣幕。
「帰って帰って帰って! 帰ってくださいーーっ!!!」
耳鳴りがする程の声で叫ばれては、さすがの幸宗も退散するしかなかったのだ。
「はぁ……」
本当に、涙が出そうだ。
しかしめげずに幸宗は、最高級の料紙に向かい、今度はどんな歌が良いかと思案している。内心、あの姫には歌など効果ないんじゃなかろうか……と、うすうす気づいてはいたものの、他に手段も浮かばない。とにかくどうにかして姫を振り向かせたかった。
「……満月は……まだ先だなぁ……。兎……? うー、うー……」
姫の好みそうな歌、歌……と思案に暮れていると、背後に人の立つ気配があった。
「何を唸っておるんじゃ」
「!?」
驚いて振り向けば、そこには父・関白左大臣が立っていた。
「ち、父上……」
恋文など書いていて、また嫌味を言われるか? と幸宗は慌てたが、意外にも左大臣は上機嫌の様子だった。
「な、何かあったんですか?」
「今日は重大な知らせがあってなぁ……。いやぁ……ほんにのぅ……」
真ん丸い顔をほくほくとほころばせながら、付いてきた女房の差し出す円座にずっしりと腰を降ろす。
「ひ孫が出来るのじゃよ……」
「ひ、ひまご?」
父のひ孫という事は、自分の兄弟の子供の子供。左大臣はもう御歳とって六十にもなる老体で、幸宗は兄弟の中でも随分と歳の離れた末息子であった。当然、兄弟たちは皆既に結婚し、その子供ももう結婚するような年頃の者ばかり。幸宗にとっては甥や姪のほうがよっぽど歳が近い。
しかも実際のところ、幸宗は自分の兄弟が一体何人いるのか正確なところを知らない。把握しているのは、父の正妻である北の対に住む母と、東北の対に住む義母の、二人の間に生まれた兄弟達五人だけである。この五人はそれぞれ皆高い位についていて、宮中でも良くお目にかかる。しかしその他、愛人やら妾やらの子を含めると一体自分は何人兄弟なのかなど想像も付かなかった。今の真ん丸い姿からは想像できないが、父は昔、かなりの遊び人だったらしいのだ。
「……えーと、どちらの方の……」
まったく見当が付かないので聞いてみると、父はふっふっふ、と勿体つけて笑った。
「やんごとなき御方の所じゃよ……」
「えぇ……っ!」
この父がやんごとなき、と言うからにはそれは幸宗と生母を同じくする、一番上の大姉君の事に他ならない。この方は今上帝ならびに今春宮ご兄弟のご生母であり、国母の宮なのである……。
「と、という事はつまり……まさか、主上(おかみ)か、春宮のところに……!?」
「そうじゃ!」
左大臣はぽん、と膝を打って嬉しそうに高笑いした。
「春宮のほうじゃ!」
「えぇ……っ! そ、それは……、めでたい、ですね……」
内心幸宗は複雑だ。春宮はつい先の春ごろ初めて結婚したばかり。相手は春宮の妃にしては身分の低い姫で、右大臣も内大臣も、抜き打ちに近い結婚に激怒していた。
この時代、帝に娘を差し出して皇子を生ませ、帝位に就けた者が、最大の権力を握る。現に、まんまと父の左大臣は先帝に娘を差し出し、今の帝を孫として、関白という最高位に就いているのだ。
(一波乱あるな……)
幸宗は嫌な汗を掻いた。
普通春宮というのは帝の皇子が就くものだ。しかし、今の帝には右大臣も内大臣も、それぞれに姫を上げているものの、未だ皇子が生まれていなかった。だからこそ帝の弟宮が春宮に立っているのである。しかしいずれ帝に皇子が生まれれば、こちらに流れが向くと思っている右大臣や内大臣にとって、今春宮に皇子が生まれ、万が一有力貴族と婚約でもしてその地位が確かなものとなってしまっては不味いのだ。
「面白くなってきたのぅ」
父左大臣にしてみれば、どちらに転ぼうが今の栄華は当分変わらないのでのんきなものである。幸宗自身にも、今のところ直接関係は無いのであるが、頭の中将という重要職についている立場上、血みどろの権力争いが始まってしまうと否応も無く巻き込まれ、板ばさみとなるのが見えていた。
(今、それどころじゃないってのに……)
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