十七.
「まぁ、とにかくだな、お前もはやく結婚して子を作れ。姫が無ければ話にならんぞ」
左大臣は結局最後にはいつもの台詞「結婚しろ」を繰り返して、去っていった。
「……はぁ……結婚かぁ……」
確かに、この歳で結婚していないのはおかしい。幸宗ほどの身分ともなれば、みな先を競って結婚し、少しでも早く子を成そうとする。権力を掴んで栄華を極めるには、姫をもうけて帝を産ますのが至上の道だ。そのためには結婚相手もそれ相応の身分の姫を選び、早いうちからの根回しが肝心なのである。
しかし今、幸宗が恋焦がれているあの姫は。
(…………無理だな…………)
余りにも、身分が違いすぎる。あの姫君程度の身分のものなら、この左大臣邸に仕える女房の中にも何人か居るのだ。姫の父は一流貴族だと言っていたが、当の父親本人に認知されていなければ意味は無い。幸宗の身であれば、あの姫を得て、正妻として別に高貴な身の人を置くことも出来るだろう。しかし幸宗はあの姫を悲しませるような事はしたくなかった。
一途な恋に生きようとするなら、出世の道は諦めるほか無いのだ。
(あの姫と……ずっと笑って暮らしたい……。あの姫とだけ……)
幸宗は胸が苦しくなり、思わず脇息に寄りかかる。
(本気の恋とは苦しいものだな……本当に)
ふう、と深いため息をついて眉をひそめた。
小さな楓の庭を不意打ちで訪れると、その人は簀子縁に程近い廂の間で猫と一緒に寝そべっていた。
(一体女房などは何をしているんだ……!)
誰かに見られでもしたらどうするのだ、とあまりに無防備な姿に幸宗は憤慨した。普通貴族の姫君は端近に寄ることすらはしたないとされているのだ。
足早に姫の側に近づき、起こして奥へ引っ込めようと思ったが、間近で見ると余りに健やかな寝顔に声をかけるのがためらわれた。
自分の腕を枕にし、白地に薄茶の猫を抱えて丸くなっている。
「……ひめ……」
そっと囁いてみるが返事はない。経験した事のないほどの胸の高鳴りに、幸宗は戸惑った。
(恋の病とは良く言ったものだ……)
あまりの可愛らしさにぼうっとして見とれていると、猫の方がもぞもぞと動いてぱちりと目を開けた。幸宗と猫の視線がぶつかる。
「ふしゃーーっ!!!」
猫はバッと姫の腕から飛び出して幸宗に飛び掛った。
「うわっ!」
がりがりっ……! すとっと着地した猫は毛を逆立て唸っている。
「こ、この……っ」
幸宗が腕を振り上げると、びくっとした猫は一目散に逃げていった。
「ふ、ふぇ?」
背後で姫が起き上がる気配がする。
「……っ! ち、中将さま……っ!? ななななんでっ!?」
「やぁ、お目覚めですか」
引っ掻かれた頬を押さえながら振り向くと、姫はざざっと退がったあと、またずるずるっと戻ってきて目を見開いた。
「や、やだ、お怪我をされたのっ!?」
出来たばかりの生傷からは血が滲んでいる。
「ははは……、猫に……」
まさかこの間使った言い訳が現実になるとは思いもしなかった。
「えぇっ! ちゃ、茶太郎にやられたのねっ、やだ、せっかく癒えかけてた傷が……っ! 八重ーっ! 八重!!」
姫は大声で女房の名を呼んで直ぐに薬を用意させた。
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