二十三.
その日、楓は朝から落ち着かなかった。急展開の結婚話当日なのだから、当然だ。うろうろと部屋中を歩き回ったり座ったりまた立ち上がったり……。
「姫さま……。熊みたいですわよ」
「! なっ、だっ、誰のせいだと……っ!!」
「いい加減、覚悟をお決めなさいませ」
「……!!」
楓はすとんと円座に座って今度は扇でぱたぱたと風をおくった。何度も深呼吸する。
あの後、楓はなんとか誤解を解こうと、必死で文を書こうとしていたのだ。しかしその最中に、中将の方から文が届いた。
――今ははや 恋ひ死なましを あひ見むと たのめしことぞ 命なりける
(今はもう、恋しさですぐにも死んでしまいそうな私ですが、あなたが逢いましょうと言ってくれたその言葉だけで、なんとか命をつないでいるのです)
楓はもう今さら、あれは誤解なんですなんて、言えない……と諦めた。諦めて覚悟を決めたのだ。しかし。
「うぅーー……っ」
どうにも落ち着かず、また立ち上がってなんとなく簀子縁の方へ足を向けると、何やら大勢の人が自分の屋敷の門前に集まっているような気配がする。屋敷を囲む垣根の向こう側に、公達らしい男の頭が見えた。
「ね、ねぇ八重。なんか、誰か来たみたいだけど……」
「あら? どなたかしら……また頭の中将さまのお使いかしら。ちょっと見て参りますわ。ほら、姫さまは奥に!」
ほらほらと促されて、楓は部屋の奥、几帳の影にちょこんと座った。
しばらくして、八重がばたばたと慌しく戻ってきた。八重がこんな足音を立てるなど、珍しい。
「姫さま……っ!」
飛び込んできた八重は血相を変えていた。顔色は蒼白だった。
「な、何……っ!?」
「姫さま……、どうか心を落ち着けて……!」
興奮の余りか、八重は目にうっすら涙を浮かべていた。
「ちょ、ちょっと、あんたこそ落ち着いてよ」
八重はがっくりと膝を付き、両手を床へ着いた。
「姫さまの、お父上さまが……! 今までお話せずに申し訳ありません、姫さまのお父上さまは、先の権大納言、……今の内大臣様なのです……!!」
「……は……」
「内大臣様のお使いが……! 姫さまを、引き取りたいと……!」
「…………」
楓の母はその昔、一流貴族の邸に仕えていたと言っていた。主人の貴族に見初められ、子を身ごもった母は、腹が目立ち始める前に邸から姿を消したと。
「な、内大臣……!?」
八重は微かに震えながら、青ざめた顔でうなずいた。
「あぁ……、姫さま、姫さま。私、今まで黙っていたんです。まさか今頃になってこんな事になるなんて……! 私は、姫さまの母君……薫さまと共に、当時の権大納言家に女童(めのわらわ:子供の召使)として仕えていました。元々薫様の縁でお仕えしていた私は、薫様と一緒に権大納言家を出たのです。……内大臣様は……内大臣様は恐ろしい方です……。姫さま、今いらしたのは先触れです。この後、内大臣様じきじきにこちらへいらっしゃると。備前の守さまのところへも京へ戻るようにと急使が飛んでいるそうですわ……」
「……は……? 恐ろしいって……」
楓は何がなんだか分からず混乱した。とても自分の事とは思えなかった。
「姫さま……! 内大臣様は、姫が欲しいのです。頭の中将さまの御文にも書かれていましたでしょう? 内大臣様には、年頃の姫が居ないと。……姫が……、欲しいのですわ……」
「……」
八重は、ぽろぽろと涙をこぼしていた。楓には信じられなかった。
「……だ、だって……。私は、私はただの、国司(地方官)の姪で……。それで、頭の中将と結婚するんじゃ……」
八重はゆっくりと首を振った。
「あぁ……頭の中将様にも、お知らせしなければ。……まさかこんな事になるなんて……!」
八重の余りの取り乱しように、楓はぞくり、と寒気を覚えた……。
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