二十四.



 半刻ほどして、それは見事な牛車が楓の屋敷の前に着けられた。随身(ずいじん:警護する人)の数も十は超えている。

 八重に言われたとおりに上座を空け、横に並べた几帳の裏に端座して、その人の訪れを待っていた。

(父……)

 楓はピンと来なかった。ずっと、母やその主人の北の方を不幸にしたどこかの偉い奴で、気に入らない人物だと思っていた。まさかこうして会う日が来るなど、夢にも思っていなかった。会いたいとも思っていなかったのだ。

 やがて供を引き連れ、内大臣は姿を現した。

 立派な、公達だった。年のころはおおよそ四十過ぎといったところ。引き締まった顔つきに大きな体格。深い紫の直衣に身を包み、優雅な物腰で上座まで進むと腰を下ろした。

(これが、父……?)

 几帳の裏から、まじまじとその姿を見ていると、大臣の方もじっと楓のほうを見た。鋭い視線。射抜かれるのではと不安にかられ、楓の身体を冷たい汗が流れた。

「……あいさつは」

 低い低い声だった。ぎくりとして楓は平伏する。八重に教え込まれた口上を必死で呟いた。

「……あ、父上様には、ご機嫌、麗しゅう、おめでとうございます……。私は、二条のお邸にてお世話になりました、女房・薫の、娘にございます……。お目にかかれて、嬉しゅうございます……」

 大臣はふ、と笑った。

「ほう……。備前の守は姫として育てたと申しておったが、……そうか、一応受け答えはできるようだな。名は何と申す」

「……」

 この時代、貴族の女性は名を明かさないのが慣わしだった。家族や身近な従者程度は知っているが、初対面の公達になど当然、名は明かさない。……しかし。

「どうした。私はお前の父だぞ。……構わん、答えろ」

 鋭い目が恐ろしい。

「……か、楓……」

 楓は威圧感に飲まれそうになりながら、必死に声を絞った。心臓がきりきり痛む。蛇に睨まれた蛙とは、きっとこういう気持ちなんだ、と楓は悟った。

「楓。……歌は詠めるか」

「……」

 歌までは用意していない。楓は即興で歌を詠めるほどの歌才は無かった。口篭っていると、大臣の目が鋭く細められた。

「……駄目か。まぁ、よい。手解きさせる者は既に用意してある。……琴は」

 大臣が言うと、直ぐに琴が用意された。

「弾いてみろ」

「……」

 楓は、琴だけは得意だった。六年前に亡くなった、母直伝の、琴。楓は琴を奏でるとき、必ず母の面影を浮かべる。琴の音は母と楓をつなぐ思い出の調べ。

「どうした楓、弾け」

 鋭い声が楓を威圧した。しかし楓は琴を弾く気にはなれなかった。母の得意だった琴の音を、この、母を不幸にした大臣に、聴かせたくは無かった。

「ひ、弾けません……っ」

 冷たい汗とともに楓が言うと、大臣は恐ろしい視線で楓を睨んだ。

「……薫は琴が得意であった。娘のそなたが習わぬ訳は無かろう。現にその琴は随分使い込んであったようだ。……触りでよい、弾いて見せろ」

「……っ」

(嫌だ、嫌だ……っ!!)

 恐ろしさに飲まれそうになりながらも、楓はどうしても琴を弾きたくなかった。

「――弾け!」

 叱責の声が飛ぶ。楓は嵌めた爪を振り上げた。

 ―ーぐあぁぁんっ!!!!

 屋敷中に、叩きつけられた琴の激しい音が響き渡った。



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