二十六.



 その日の幸宗は従者達に奇妙な目で見られるほどに機嫌が良かった。参内の帰りに用意された牛車にも乗らず、思わず「徒歩(かち)で帰ろう!」と言ってしまうほどに。

 普段、幸宗は取り澄ました微笑を崩さないように心がけているのだが、今日という今日はどうにもこうにも頬が緩むのを抑えられなかった。

「幸宗さま……」

 隣を歩く供の吉政が不信げな視線を投げてくる。

「ん? なんだ」

「……いえ……。お幸せそうですね……」

 幸宗はばんばんと吉政の背をたたいた。

「はっはっは、おお、俺は幸せだぞ! 馬鹿お前、毎日五条へ通っておいて愚問だろう! いやぁ〜お前が返事を持ち帰った時には俺は生まれてからこれ以上の喜びは無いというほど嬉しかったよ」

 毎日毎日の文使いを務めていた吉政は、何処か冷めた顔で引きつった笑いを浮かべていた。

「なんだ、お前も喜べよ」

「いえ……まさか本当にあの幸宗様が、一人の姫にここまで本気になるとは……しかも身分違いの……」

「身分? そんなものはこの際どうだっていい。俺は決めたんだ。俺は生涯あの姫ただ一人! ……って……んー、春宮と被るな……」

 幸宗はちっと舌打ちして、一瞬眉を潜めたが、それからまた頬を緩めた。

「はぁ……しかし私はまた大臣(おとど)に嫌味を言われますよ……」

「お前そんな事を気にするなよ。いずれ俺はあの邸を出る。その時はお前も連れて行ってやるからさ」

「はぁ……」

 吉政はまだ何処か呆れたような顔をしていたが、もう幸宗は無視する事にした。

 多少強引に事を運んでしまったが、あの後、姫は何も文句を言って来ない。言ってこないという事は受け入れたという事だ。それに、こうでもしないとあの姫には一年でも二年でも待たされそうな気配だった。待てない事は無いが若い身空でそれは余りにも辛すぎるというもの。

 今日は天気が良い。幸宗は抜けるような高い空を見上げて息を吸い込んだ。最高だ。

(最高の十三夜になる……! いや、してみせる……!!)

 硬く決意した横で、吉政が三度目のため息をついていた。

 

「ん、あれは……?」

 道の正面の方から、砂煙をあげて人馬が駆け寄って来る。吉政が目を凝らして手を振った。

「おーい」

 だんだんと近づいてくる馬上の影は、吉政と同じく左大臣家に仕える下男、友則だった。

「ゆ、幸宗さま……っ。帰りが遅いと思ったら、か、徒歩ですか……っ」

 友則は慌しく馬から飛び降りると、馬の静止もそこそこに、幸宗の前にひざまずいた。

「なんだ、慌てて」

「えぇ、これを……」

 友則は簡素な文を差し出した。

「ん? 誰からだ?」

「五条の姫君付きの女房・八重殿からです。火急の知らせあり、との事だったので、急いで持ってきました」

「え……っ」

 幸宗はさぁっと青ざめた。

「ま、まさか、やっぱり嫌だとか……そういう……?」

 やはり強引過ぎたのだろうか、と恐る恐る文を受け取る。隣で吉政が密かにほくそえんだが、それは幸宗は気づかなかった。

 しかし文を広げて読み進めるうち、幸宗は本当に顔を強張らせていった。読み終えた時には文を取り落としてしまっていた。

 不審に思った吉政が拾い上げながら盗み読んで、やはり顔色を変える。

「幸宗さま、これは……!」

「……っ、くそ、あの狸爺ぃ……! 借りるぞ!」

 幸宗は友則の乗って来た馬に飛び乗った。

「あっ、幸宗さま! 駄目です、一人でのお出かけは……っ」

 吉政の声が耳に入ったが、そんなものを聞く耳は無かった。幸宗は直ぐに馬に鞭をくれ、五条目指して駆け出した。



<もどる|もくじ|すすむ>