二十九.
「姫、手綱を取って!」
「え、あ、はい!」
抱えた姫をなんとか持ち上げるようにして馬へ上げようとすると、姫は直ぐに手綱に手を伸ばした。しかし。
ひゅんっ!
空を切る音がして、幸宗の足元の土に矢が突き刺さった。
ぎょっとして飛んできた先を見ると左衛門督が身体半分起こして、次の矢をつがえている。
「……っ!! 左衛門督……っ!」
左衛門督は矢をつがえたままはったと幸宗を見据えた。
「妹を放せ。……次は当てるぞ」
左衛門督の弓は百発百中。都中で右に出る者は無い。ましてや三間(さんけん:6メートル)ほどの至近距離だ。
幸宗はつ、とこめかみに汗が流れるのを感じた。
「当てる……? 君が……?」
「……お前、この俺を容赦なく殴っておいて訊くのかよ。……俺も本気だ」
「……」
確かにこの左衛門督なら、足に当てるくらいの事はするかもしれない。
「姫……」
姫は矢が飛ぶところなど初めて見たのだろう。真っ青な顔をして震えている。幸宗は太刀を捨て、抱えあげていた姫を地面へ降ろした。
「ち、中将さま……」
恐ろしげに矢をつがえている左衛門督を見ている。幸宗は姫の視線を遮るようにそっと姫を抱きよせた。
「……っ!」
「姫。……残念ながら今ここであなたを連れ去るのは困難なようです……」
「……」
腕の中、姫は顔をあげて幸宗を見つめた。まだ青い顔色で、精一杯笑顔を作って見せようとしている。
「だ、大丈夫……。わ、私、二条の……内大臣家に行きます……」
「姫……!」
幸宗はたまらずに姫を抱く腕に力をこめ、強く引き寄せた。
「!」
「……姫、私は必ず参ります。待っていてくれますか……?」
耳元で囁くが、しかし姫からの返事は無い。
「……」
「……姫?」
肩を掴んで身体を離すと、姫は困ったような怒ったような、複雑な表情で唇を噛んでいた。
「おい中将! いい加減にしろ!! 妹から離れろよっ」
左衛門督が痺れを切らしたのか、こちらへ近寄って来る。
「姫、なぜ何も言ってくれないんです」
「……わ、わたし……」
苦しげな呟やきが漏れた、次の瞬間。
がんっ!! 幸宗は強い衝撃を受けて吹っ飛ばされた。熱い痛みが左の頬を襲い、視界がぐらぐらと揺れている。
「……ぐ……っ」
左衛門督は姫の前に立つと、拳を降ろして倒れた幸宗を見おろした。
「……これであいこだ。恨みっこなしだぜ、中将。……妹は渡さない」
言い放って、姫の手を取って車へ押し込める。
「あ……っ」
姫は何か言いたげに幸宗を振り返ったが、左衛門督がすぐに前簾を下ろしてしまった。そのまま馬に飛び乗って、号令をかける。
「出せ!」
すぐに車は走り出した。
「じゃあな」
左衛門督の馬も後に続いて駆け去って行く。
まだ焦点の定まらない幸宗は、やっとの思いで身体を起こすと、呆然として車の走り去った街道を眺めた……。
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