三十.
しばらく路地に座り込んでいると、がらがらと牛車が向かって来た。先導している見知った姿を見とめて思わず舌打ちする。いまさら慌てても仕方が無いのでゆっくりと立ち上がって直衣についた土を払った。
「幸宗さま! どうされました、こんな地べたに座り込むなど……っ」
駆け寄りながら言い、吉政は愕然としたように立ち止った。
「そ、そのお顔は……っ」
左衛門督に殴られて痛む頬を凝視している。
「……」
「幸宗さまっ!?」
幸宗は吉政を無視して真っ直ぐ牛車へ向かった。そのまま無言で乗り込んで座り、足を放り出す。
(……くそっ)
眉間を押さえて歯噛みした。こんなにも自分の思い通りに事が運ばないのは初めてだ。このままでは姫は間違いなく春宮へ差し上げられてしまうだろう。なんとかそのまえに姫を奪ってしまいたい。しかし先ほどあれだけ大仰に左衛門督と立ち回りを演じてしまったのだ、内大臣が警戒しないはずは無い。それでなくても普段から、あの邸は警護が厳しいので有名なのだ。おそらく文を渡す事さえままならないだろう。
「なんでよりによって……!」
また同じ所へ考えが行って、幸宗は苛立ちのまま牛車の壁を蹴っていた。これまでは備前の守の姪の姫を、自分には低すぎる身と心配していた。それが一気に幸宗にさえ手の届かない春宮妃などという高嶺に昇らされようとしている。よりによって、いざ結婚しようとしていた、今日この日にだ。
「……ゆ、幸宗さま……」
吉政が恐る恐る、と言った感じで声をかけてきた。
「なんだ」
「三条のお邸へ、お戻りで良いですか……?」
「ああ」
不機嫌も隠さずそっけなく言うと、すぐに牛車はゆるゆると走り始めた。小さな揺れに身を任せながら、幸宗は呟く。
「なんで……」
あの時姫は、返事を返してはくれなかった。必ず参ると言った言葉に、困ったような苦しげな表情でうつむいたのだ。
今日の結婚は、姫の意志を確認したものではなかった。しかし姫はまた会いたいと言ってくれていたし、多少強引ではあったが結婚話を飲んでくれていた。
多少なりとも、好かれているのだと、思っていたのに。
深いため息が零れ、うな垂れる。
(俺は思いあがっていたのか……?)
いつになく気弱になり、幸宗は首を振った。
(いや)
あの時姫は動揺していた。見知らぬ邸へ連れ去られる恐怖に加え、太刀を持った自分、初めて触っただろう馬、つがえられた弓。
(……だから怯えていただけだ)
自分自身をはげますように思考をめぐらしたが、少しも気は晴れなかった。あの時姫は、確かに困っていた。
もしや結婚話を飲んだのは、自分が備前の守を突付いたせいかもしれない。文を寄越したのも、あの女房辺りに諭されただけなのかもしれない。実はこれっぽちも好かれてなどいなかったのかも……。
そこまで考えて幸宗は怒鳴った。
「吉政!!」
うじうじと考えるのは性分ではない。こんなに自信をなくした自分など、自分自身、見るに耐えない。
「はっ」
「五条へ行くぞ!」
「え……っ!? し、しかし……」
「いいんだ。あの女房や、備前の守と話がしたい」
何でもいい、姫の話が聞きたい。ひょっとしたら姫は、自分について何か語っていたかもしれない。幸宗はすがるような気持ちで五条へ車を走らせた。
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