三.



 先ほどとは打って変わった琴の調べが浪々と涼やかな夜を彩っていた。簀子縁(すのこえん:縁側)の影に隠れ、姫の居られる奥の間へ忍び込もうとしていた幸宗は、思いがけない琴の調べにうっとりと聞き入ってしまい、入っていく機を逃した。

 トン……、と曲の最後の響きが夜の静寂に飲み込まれると、恐らく姫のものだろう、ほう、と小さなため息が聞こえた。幸宗は柄にも無く胸をときめかせる。

 続いてポロリ……と始まる、二曲目。秋の名月を称える調べ。幸宗は丁度持ち合わせていた龍笛を懐から取り出すと、琴に合わせて伴奏した。

「……っ」

 息を飲む音と共に、琴の演奏が途切れる。

「だ、だれっ!!」

 ばっと姫が立ち上がる気配がする。幸宗は笛を続けながら、姿を見せるように廂(ひさし:縁側の近くの間)に立った。切りの良いところまで吹いて笛を下ろす。

「貴女の琴の調べに吸い寄せられて、ついこんな所まで迷い込んでしまいました。どうぞ、お許しを」

 にっこりと笑顔を向ける。これで大抵、落ちない女などいないのだ。しかし几帳の向こう側の人はざっと後ろへ下がって怒鳴った。

「だだ、誰の許しを貰って入ってきたのよ、この変態っ!! ちょっと、誰かっ、変な奴が居る、捕まえてよっ!!」

 幸宗は唖然とした。

(へ、変態……?)

 そんな罵声を浴びせられたのは生まれてこの方初めてである。しばし呆然とした幸宗であったが、すぐに気を取り直して几帳の前まで歩を進めた。

「やや、やだっ! 来ないでよっ!! なんなの!?」

 怯えと怒りが入り混じった声で怒鳴られる。しかし、幸宗は笑みを崩さずにやんわりと続けた。

「突然のご無礼をお許し下さい、姫。私は頭の中将。今夜は方違え(かたたがえ:占いで凶の方角を避けるために方角の良い他の家に泊まること)で六条へ向かっていたのですが、こちらの琴の音に吸い寄せられて来てしまいました。どうか今夜一晩、こちらへ宿をお借りすることをお許しください」

「と、とと、頭の中将……っ?」

 今を時めく左大臣家の末息子で位は四位。花形役職の頭の中将は、普通このような小さな屋敷に住む備前の守の親戚の娘など、口を利くことも目をあわすことも許されないような遥か雲の上の身分である。姫の方が驚くのも無理は無かった。

「こちらの女房殿には事情を伝えてあります。ご主人のあなたには、連絡がまだのようでしたが」

 当然、その辺の根回しは既にしてあり、ただ姫に伝えないようにさせたのは驚かせたかったからなのだが。しかし幸宗には嫌がる女性を無理強いするような趣味は無い。

「お許しいただけますか?」

 そっと尋ねる。

「わ、わ、分かりましたわ。あの、その、奥の部屋、用意させますから、ちょ、ちょっとお待ちを……」

「ご心配には及びませんよ。先ほどの琴の続きを聞かせてください、姫。そして、良ければ月を肴に夜語りのお相手をして頂けませんか」

「……っ」

 ずるずると、姫君が座り込む気配がした。



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