三十一.
五条の屋敷ではあの八重という女房が出迎えてくれた。本当ならば姫に迎えてもらえるはずだった今日、主の居ない部屋へ通される。後ろには何故か吉政も着いて来ていた。門前で待てと言ったのに、「今日の幸宗さまは一人にできません」と言って聞かなかったのだ。「勝手にしろ」と言って屋敷へ上がり、通された姫の部屋に座すと、吉政は一応気を使ったのか廂の方へ控えた。
「贈った調度も、無駄になってしまったな……」
自分の贈り物のせいで少し狭く感じる部屋を見回すと、切なさばかりが募る。
「八重といったな」
「は、はい」
先ほどから女房の八重は深く平伏していた。
「……顔を上げてくれ。……姫の話を聞きに来たんだ……」
「……はい……」
八重は真っ赤に目を腫らしていた。長く仕えて来た主人と突然引き離され、主人の行く末に胸を痛めていたようだった。
「姫は……、私との結婚には乗り気じゃなかったかのかな……?」
「え……」
八重は気まずそうに目をそらした。
「そのようなことは……」
「いいんだ。はっきり言ってくれ。春宮妃など、姫にとってはこの上ない名誉なことだ。あの姫がそれを望むような人とも思えないが……俺と一緒になるのも春宮妃になるのも、姫にとっては似たようなものだったんじゃないか……だったら春宮妃を選ぶのも……」
言いながら幸宗は、本当にその通りなのではないかという気がしてきた。ここ二月ほど、恋に狂っていたのは自分ひとり。あの姫にとって果たして自分はどんな存在だったというのだろう。姫の口からは、一言も、何も聞かされてはいないのだ。
「まぁ……!」
八重は目を見開き、身を乗り出すようにした。
「そのような事は決してありません!」
思いがけない強い口調に幸宗は驚いた。
「中将さま、あれほど強気でしたのに、急にどうされましたの? 確かに姫さまは結婚には……乗り気とは言えなかったかもしれません。……でも、それはただ、急なお話に驚いていただけです。姫さまは……はっきり口にはされませんでしたけれど、中将さまの御文を、いつも心待ちにして、それは嬉しそうに何度も眺めていたのですよ」
「え……」
姫が、自分の文を、心待ちに?
「それに姫さまは……中将さまと身分が釣り合わない事を酷く気にしていましたから……中将さまがお嫌な訳ではなかったんです。……胸が苦しいと、おっしゃってましたわ」
にわかには信じられないような、都合のいい話だ。しかし八重は、その時の様子を思い出したのか楽しそうにふふ、と微笑んでいる。
「……そ、そうか……」
全てが自分の独りよがりという訳では、無かったのか。幸宗は胸の靄が晴れていくような心地がした。
「でも……」
ふ、と八重は目を伏せて首を振った。
「この度のような事になってしまっては……。こんな事になると分かっていれば、私、姫さまに文など渡しませんでしたのに……! 無駄に姫さまの苦しみばかりを増やすような結果に……」
伏せた目の端にじわじわと涙が溜まっていき、八重は慌てて袖で拭った。
「いや。文を渡してくれて良かった、八重。……俺は決して姫を不幸にはしない」
「……え」
八重は不審げに眉を寄せて見上げてきた。もう成す術など何も無いと思っていたのだろう。
「俺は諦めないぞ。……姫を手に入れる」
「……そ、そんな……!?」
八重は青ざめた顔で恐ろしげに幸宗を見た。幸宗は立ち上がった。もう、迷いは無い。
「八重、一緒に来てくれ。お前には、いずれ姫を俺の家に連れ帰ったときに、また仕えて欲しいから」
「……えぇっ!?」
「幸宗さま!!」
それまで黙って控えていた吉政が声をかけてきた。
「何をおっしゃってるんですか! 落ち着いてください。もう姫君は二条の内大臣邸の中! 手出しなど……!」
「できるさ」
幸宗は落ち着いていた。後宮へ上がる前ならば、まだ、機はある。
「諦めてください! 女などいくらでも居るでしょう……っ、幸宗さまらしくもない! そんな事をして内大臣と揉めたら……」
吉政は口をつぐんだ。強い視線で睨めつけてやったからだ。
「……吉政。お前は、俺の本気を分かってくれてると思ったが。……代わりの姫など居ないんだ」
「……っ。……存じてますよ……。まさか幸宗さまがここまで本気になるなど思いもよりませんでした。でも最初から、幸福にはなれない恋です、今手を引けば、傷は浅い……っ」
「引けるか、馬鹿!」
幸宗は怒鳴りつけた。
「ここで引いたら傷が深すぎて死んじまう!」
「……!」
吉政は眉間に皺を寄せ、膝の上の拳をぐっと握った。
「……姫君からの返事の文を……持ち帰った事を後悔しています。……握りつぶしてしまえば、良かった」
「! お前……っ」
吉政はゆらりと立ち上がった。
「分かりました。出来うる限りの協力をします……! ……ほんとは嫌ですけど……」
最後の方はぼそぼそと言っていたが、それでも吉政はきっぱりと言ってくれた。
「吉政……」
幸宗は、嬉しかった。なんだかんだ言って一番気心が知れた従者だ。
「まぁ……。中将さま、そこまで……」
八重が驚いた顔で見上げている。
「なぁ八重、頼む。お前も……協力してくれないか?」
言うと、八重はにっこりと、それは嬉しそうに微笑んだ。
「何も出来ませんけど……できる事なら何でも致しますわ」
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