三十二.
二条の邸で楓に用意されたのは、北西の対の広い部屋だった。豪華な調度が違和感なく並べられているが、身には不釣合に思えて楓は全く落ち着かなかった。それなのに楓は文机に向かい、筆を握っている。
(もう、やだ……!)
この邸へ着いたとたんに、手習いがてら文を書けと言われた。北の方へ挨拶へ伺うための、文だとか。同じ家に居るのにわざわざ文を書いてから伺うなんてどうかしてる。しかも、隣には怖い女房が付きっ切りで言葉の使いまわしだとか文字そのものについてうるさく注文を付けてきた。そして、明日までに歌を考えておけ、と宿題を出していったのだ。
(歌なんて詠めないもん……!)
楓は筆を叩きつけて、文机に突っ伏した。
「はぁ……。家に帰りたい……」
呟いた時、廂の方でぎし、と物音がした。
申の刻(夕方四時頃)までは女房が三人も側に控えていたのだが、今は退出していて楓一人きり。もう酉の刻(六時頃)過ぎで、辺りは暗かった。慣れない広い部屋で、唐突に心細くなる。
(まさか、物の怪でも出るんじゃ……!)
青ざめた時。
「おい」
「ぎゃああああーーっ!!!」
低い声が聞こえて、楓は飛び上がって部屋の隅まで逃げた。
「!?」
ばたばたと駆けつける足音。
「どうした!?」
恐る恐る振り返ると、
(ひ、人……!?)
姿を現したのは、若い公達だった。
「……あ……!」
たしか頭の中将が、左衛門督(さえもんのかみ)と呼んでいた……。
「何かあったのか!?」
駆け込んできたその人の後ろで、さらに駆けつける足音がする。
「姫君!? どうされました!」
「姫君、今のお声は!」
楓の部屋の周りには大勢控えていたらしい。左衛門督の後ろに、警護の侍達が押し寄せている。
「……」
楓はあんぐりと口を開けた。
左衛門督一人を残し、残りの者は皆持ち場に戻った。左衛門督は勝手に円座を引いて腰を下ろし、隔ても無しに楓をじろじろと見ている。
「それにしても色気が無いな……」
「うるさいわね」
「その言葉遣いも何とかしろ」
「余計なお世話ですっ」
楓はつん、とそっぽを向いて口を尖らせた。
「お前……兄に向かってその態度はよせ」
「あ、兄ぃ……!?」
酷い違和感を感じて目を見開く。そういえばこの人は昼にも楓のことを妹と言っていた。
「何をいまさら驚いてるんだ。俺はお前の兄。秀頼という。……お前は?」
「……え」
「名前」
楓は答えて良いものか迷った。
「言えよ。兄妹だって言ってんだろう」
「……楓」
なんだかやけにぶっきらぼうな公達だ。同じ年頃のようなのに、頭の中将とはまるで違う。
「ふーん、楓ね。……ま、兄妹なんだ、仲良くしようぜ」
「え……っ」
楓は目を剥いてもう一度左衛門督を見た。仲良く、という台詞がひどく意外だった。
「なんだよ、敵をみるような目をするな」
「だ、だって……あの時は矢まで向けて……」
楓はその時の事を思い出してぶるっと身震いした。
「悪かったよ。どうせ当てるつもりは無かった。……頭の中将が悪いんだぜ、あんまり無茶な事しようとするから……」
確かに、あの時の中将は正気とは思えなかった。それだけ、追い詰められていたのかもしれない。……楓は、ついて行きたい気持ちと恐ろしい気持ち、半々だった。
「あいつめ、いつもは取り澄ましてやがるくせに、向きになって……! まぁ、とにかくお前を傷物にされなくて、良かった。あいつはとんでもない女たらしだからな」
「さ、左衛門督さま、あの、頭の中将さまは……」
「楓。俺の事は兄上とよべ」
「……」
なんだか楓は調子が狂ってしまい、気恥ずかしくなった。
「呼べよ」
「……あ、兄上……」
たどたどしく言うと、左衛門督はふっと嬉しそうに笑った。
「うん。……で、頭の中将が何だって?」
「あの……」
楓は迷った。頭の中将とは結婚するつもりだった事。女たらしは有名だが、今は楓一人だと言ってくれている事。……この左衛門督に言っても良いものか。
「お前……まさかもうあいつと出来てるんじゃないだろうな」
「!! で、で、出来てるって……ど、どういう」
楓が慌てていると、左衛門督はさっと顔色を変えて楓の肩をつかんだ。
「お前……! どうなんだ!? お前は、春宮の元へ嫁ぐ大事な身なんだぞ!?」
そう言って楓をがくがくと揺すぶる。楓は言葉の意味が飲み込めていなかった。
(……春宮って……嫁ぐって……? 誰が春宮へ嫁ぐって……わ、私か!?)
やっと理解したところで思い切り叫んだ。
「えっ、ええっ、春宮ーーーーっ!?」
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