三十三.
「お前、父上から聞かされてないのか」
楓は無言で首を振った。しかしそういえば、と思い当たる。八重が言っていた。内大臣は年頃の姫が欲しいのだ、と……。
楓は唾を飲み込んだ。
「わ、私が、春宮に……?」
「ああ。父上は今日さっそく、お前の事を春宮の耳に入れていたよ。……まぁ、まだ返事は貰えなかったようだけど」
返事なんか一生もらえなくて良い。楓は唇をかみ締めて、左衛門督から視線をそらした。
「……」
今までずっと放っておいて、自分の出世のために姫が必要だからといって探しだし、本人の意思も聞かずに嫁がせると決めて……。なんて自分勝手な人なんだろう、と内大臣に対する怒りがこみ上げる。
「どうした? お前、こんな良い話はないだろ?」
左衛門督は不思議そうに楓を見た。……この人は何も分かっていない。初めから、楓の気持ちなど理解するつもりもないのかもしれない。
(中将さまは)
なぜだか急に頭の中将の顔が楓の脳裏をよぎった。
(絶対無理じいなんかしなかった)
多少強引なところはあったけれど、決して楓の気持ちを無視するような事はなかった。
本当なら今頃は、あの頭の中将と結婚していたはずなのだ。
「……嫌……」
「?」
「私、家に帰りたい……っ」
今頃になって楓は後悔した。あの時。中将が「必ず参ります」と言ってくれたあの時。楓は返事をする事が出来なかった。まだ、迷いがあった。
でも今はただ、とても中将に会いたい。
「何言ってんだ……!? お前、まさかやっぱり頭の中将と……っ」
楓は勢い良く首を横に振った。
(絶対言っちゃ駄目だ!)
本能的に、悟った。
この人は絶対に頭の中将との仲など認めてはくれない。むしろ何としてでも引き離そうとするだろう。今日だって既に、そうだったのだ。
それにこの左衛門督だけではない。あの内大臣にも……。
「秀頼、ここか」
廂の方から低い声が聞こえた。ぎょっとして見ると、内大臣その人の姿。
「父上」
左衛門督はさっと居住まいを正し、一礼する。楓は慌てて扇を開き、顔を背けた。一緒に現れた女房が座を用意して、内大臣が目の前に座ると、酷い威圧感に襲われる。
「秀頼。今日、頭の中将と会ったそうだな」
内大臣は楓の方を見ず、息子の方に視線を向けた。
「は。危うく妹を奪われるところでした」
「ふ……。左大臣の倅が……。そうまで私の邪魔をしたいか……」
そう言った時の内大臣の横顔が酷く恐ろしかった。
「お前を向かわせて正解だったな」
「はい」
「さて……楓」
内大臣の視線がこちらへ向く。目を合わせたら射抜かれそうな気がして、楓は出来るだけ顔を背けた。
「頭の中将から文を貰っていたそうだな」
「……」
この人は何処まで知っているのか、と楓は青ざめた。
「備前の守からそう聞いている……よもや通わせてはおらんだろうな」
楓は慌ててうなずいた。どうやら結婚するはずだったという話までは、伝わっていないらしい。
「そうか……なら、良い。頭の中将は浮気な人だ、幸せにはなれん……。それよりも春宮は、とても一途で真面目な方だぞ」
(……来た!)
とうとう内大臣の口から春宮の話を出され、楓は冷たい汗が流れるのを感じた。
「わ、私には……雲の上の話過ぎて……」
「何を言う。お前はこの私の娘なのだから、高すぎる望みという事は無い」
「……で、でも、私なんか……」
何とか言い訳を考えていると、内大臣の目が鋭く細められた。
「はっきり言っておこう……楓、お前は春宮妃となるのだ。これはもう私が決めた事だ」
口答えは許さんとばかり、鋭い目で見られて、楓は思わず口をつぐんだ。……最初からこの人はそのつもりだったんだ、と改めて思い知らされる。
「……嫌です……。家に、返してください……」
精一杯、勇気を振り絞り、楓は言った。こんな事を言って、許されるはず無いと分かっていても、これしか方法は浮かばなかった。ずっと言い続けていれば、この内大臣もいつか諦めるかもしれないと、そう考えていた。
「お前の家はここだ」
「違う、五条の……っ!」
「楓」
恐ろしいほど低い声。
「その、お前の言う五条の屋敷など、潰すのは簡単なんだぞ」
楓の身体を震えが走った。
「……え……」
顔色を変えた楓を、内大臣は面白げに眺めている。
「まぁ、五条の屋敷など潰してもつまらん。それより備前の守も……そろそろ備前も飽きた頃じゃないか……どこか別の国へ、推してやっても良い」
「……!」
楓はみるみる血の気が引いていくのが、自分で分かった。備前は実り豊かな上国で、伯父は恩恵にあずかりとても豊かな暮らしをしている。都に居る下級貴族などより、よほど裕福な暮らしをしているのだ。
「趣を変えて、島国などは、どうだろう」
「……な……!」
島国など、行ったら無事に戻れるかも分からない、危険な海を越えてゆくのだ。もし流刑地にされているような国にでもなったら……! 楓はあまりの事に愕然とした。
甘かった。八重は、内大臣を恐ろしい人と言っていたではないか……。
「……私に、選択肢は無いのね……」
逆らえば、楓だけではない、累は伯父にまで及ぶと、そういう事なのだ。
内大臣は低く笑った。
「まぁ、そうだな。……お前は頭が良いようだ。それに、優しい娘に育ったようで父は嬉しいぞ。……春宮もきっと気に入るだろう」
かっと怒りがこみ上げ、楓は内大臣を真っ直ぐに睨んだ。初めてまともに、視線がぶつかりあう。しかし楓は逸らさずに睨み続けた。
内大臣はにやりと笑った。
「……秀頼」
楓の目をはったと見つめたまま、内大臣は横にいる息子に声をかけた。
「はい」
「妹を護るのは、お前の役目とする。当分はこちらの対の屋へ宿直(とのい:泊まり込んで警護すること)せよ。……良いか、楓から目を離すなよ……」
左衛門督は一瞬驚いた顔をしたが、直ぐに顔を伏せてうなずいた。
「は……、承知いたしました」
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