三十四.
「あまり気を悪くするな、楓」
内大臣が出て行って、二人きりなると、左衛門督は遠慮がちに声をかけてきた。楓は怒りでまだぶるぶると震えている。
「……っ、あんなの、脅しじゃない……っ」
あんな酷い事を言われて、怒らないで居られる方がおかしい。
「しかし春宮妃は……お前にも悪い話じゃないだろう……?」
「嫌よっ!!!」
楓は叫んでいた。
「なんで私の意志を無視するの!?」
叫ぶと、涙腺が緩んでくる。もう涙を流すのが嫌で、楓はぐっと目に力を込めた。
「楓……」
左衛門督は困った顔をして楓を見つめた。
「……お前がそんなに嫌がるとは、思いもしなかった」
「……」
「しかし……春宮は本当に良い方だぞ。あまり悪い方にばかり考えるな」
「……もう、出てってよ……!」
涙を堪えるのも限界で、楓はやっと言う。左衛門督ははぁ、とため息をついて立ち上がった。
「……俺は近くに控えている。何かあれば直ぐに呼べよ」
楓は返事を返さなかったが、左衛門督はそのうち部屋を出て行った。
一人でぽつんと座っていると、寂しさに耐えられなくなって、楓は泣いた。頭の中将の面影が瞼裏をちらついて、離れなかった。
(……中将さま……会いたい)
もうはっきりと、楓は自覚した。
(私、中将さまが好きなんだ……。……もう、遅いけど)
どうしてもっと早くに気づかなかったんだろう。内大臣に見つかる前に、中将を受け入れていればこんな事にはならなかったのに。
(もう全部、……遅い……)
絶対に、恩のある伯父を巻き込むわけにはいかない。中将と結ばれる事など夢のまた夢になってしまった。
嗚咽が漏れそうになって、楓は立ち上がった。この邸についてから、怖そうな女房に弾いてみろと言われた琴が、部屋の隅に置いてある。
楓は琴を月の見える位置まで持ち出した。今夜頭の中将と一緒に眺めるはずだった月の光の中、一人で琴を掻き鳴らした。
涙が止まるまで、掻き鳴らした。
汗を掻くほど演奏に熱中し、ふと気づくと月に照らされた板の間に白いものが見えた。
(……え……。文……?)
先ほど、琴を運んできた時にはそんなものは無かった。人の気配ももちろんしなかった。投げ込まれたのかもしれない。
しかしこの対の屋の周りは侍までいるほどの警護の厳しさだというのに、本当にいつの間に、と不審に思いつつ、楓は文を拾い上げた。広げてみて、その見慣れた達筆の文字に目を見張る。
――明後日の十五夜には、お菓子を食べる約束です。約束は、守って頂きますよ。……私も、叶えられるよう尽力します。
「……っ」
楓は文を掻き抱き、月明かりで青く照る庭に目をやった。もう誰の気配も、無い。
(中将さま……)
せっかく止まった涙がまたぽろぽろと溢れ出した。
たとえ、どうにかして中将が訪ねてきたとして、楓はもう、受け入れることは出来ないのだ。
内大臣の言う通りに春宮の元へ嫁がなければ、不幸は楓の身の上だけではすまなくなる。ひょっとしたらあの内大臣は、伯父はおろか中将その人にも恐ろしいことをするかもしれないのだ。
……あの父親に、逆らえない。
楓は声を殺して静かに泣き続けた。
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