三十五.
三条の邸の自室で悶々としていた幸宗は、待ちわびた従者の帰りに渡殿まで飛び出した。
「どうだった、吉政!?」
声をかけて、思わず目を見開く。吉政は右の腕をだらりとさせて、肩口を押さえていた。
「幸宗さま……やはり、私が行って良かったです……」
「お、お前っ」
慌てて駆け寄り確かめると、吉政の直垂(ひたたれ)は肩口が裂け、血が滲んでいた。
「……大した事はありません。すぐ、逃げましたから」
「大した事って……お前これ、太刀傷じゃないか!!」
はじめ、幸宗は自ら二条の内大臣邸に忍び込むつもりだった。しかし勝手も知らず、警護の厳しいことで有名な邸に、幸宗自ら行かせる訳には絶対に行かない、と吉政が言い張ったので、今回は偵察がてら吉政が文を持っていく事になったのだ。しかし姫の居る北西の対の屋の周りは大勢の侍が居て、近づく事もままならなかったという。吉政は文を投げ入れるだけで精一杯だった。
「姫が、琴を弾いていてくれて助かりました。なんとか家人をだまくらかして、姫の対の屋が北西という事までは分かったのですが、琴の音が無ければ、文を投げ入れる事もできませんでしたよ」
女房に傷の手当てをさせながら、吉政は眉をひそめつつ言った。幸い、掠っただけの浅い傷だ。
「……そうか、内大臣め、そこまで警戒してるか……」
「幸宗さま、忍び込むのだけは絶対に止めてくださいね。相手が誰かも確かめもしない、問答無用ですよ、あそこの侍どもは」
「……」
どうしたものか、と幸宗は思案した。それほど警護が厳しいのでは、首尾よく忍び込めたとしても、姫を連れ去るのは至難の業だろう。
しかし何としても……十五夜には、会いたい。
翌日。参内からの帰り道、幸宗は宮中を出たところで左衛門督を捕まえた。
「……なんだよ」
昨日の一件が尾を引いているのだろう、左衛門督はあからさまに不愉快そうである。しかし幸宗は構わずに用件を口にした。
「いえ……君の新しい妹姫に、文を渡して頂きたいと思いまして」
そう言って、昨晩のうちにしたためた恋文を取りだした。
「……阿呆か、お前は……」
さも呆れたというように、左衛門督は肩をすくめた。
「……さっき、内大臣にもそう言われました」
「はぁ!? お前、まさか父上にも同じこと……」
左衛門督は面白いほど口を開けて驚いている。幸宗は思わず笑った。
「いえ、さすがに内大臣殿に文使いは頼めません。結婚させて下さいと、率直に言ってみました」
「……阿呆か……」
左衛門督は顔をしかめてため息をついた。
幸宗はどうせ気持ちはばれているのだから、と正面きって言ってみる事にしたのだ。結果は予想通り「断る」の一言だったのだが。食い下がると、「これ以上阿呆な論議をする気は無い」と言われてしまい、幸宗は落胆した。
「あのな、今日も父上は春宮に姫の入内を勧めていただろう。お前、同じ席に居たじゃないか」
確かに、内大臣と右大臣が揃って互いの姫を春宮に、と火花を散らしている場に幸宗は同席していた。議論はずっと平行線で、春宮が荒れて怒鳴り始めたところを、帝が適当に取り成してお開きになった、その帰りに内大臣に声をかけたのだから、よく覚えている。
「……春宮は全く乗り気じゃなかったようですが」
「……今は宣耀殿の方が忙しいんだろ。あの妃がじき、里下がりでもすれば気も変わるだろうさ」
産み月が近づけば、後宮での穢れを避けて、女御でも実家へ帰るしきたりだった。
「……どうでしょう。あの方は私と似て一途でいらっしゃるから」
「……お前。どの口がそういう事いうんだ」
幸宗の色好みは有名すぎる。
「はは。しかし最近の私は本当に君の妹姫以外、目に入らないんですよ。宮中でも……噂になっているでしょう」
先日全ての女に別れを告げたせいで、幸宗はひそかに噂されている。何処かの高貴な姫一人に懸想して、腑抜けになってしまったとか、ついに男に目覚めてしまい、女に興味をなくしたとか。
「……! お、お前のいう事なんか信用できるか」
「やはり……、日ごろの行いというのは、大事なものですね……」
幸宗ははぁとため息ついて、それから左衛門督の手を取ると、無理やり文を握らせた。
「おい、渡さないぞ、俺は!」
「……構いません。君の手に渡っただけで、満足する事にします」
「お前な……」
「君の邸が野暮すぎるんですよ。文使いも忍び込めないほど警護するなんて、どうかしてる」
吉政に怪我を負わせてしまった事もあって、幸宗は恨みがましく左衛門督を睨んだ。
「妹は今大事な時期なんだ。お前みたいな虫が付いたら困るからな」
「……仕方が無いから、君に託します」
「だから渡さないって……!」
幸宗はもう踵を返した。
とりあえず、これでいい。内大臣にも左衛門督にも話は通した。後は……好きにさせてもらう。
後ろで左衛門督が何か喚いていたが、幸宗は無視して帰路に着いた。
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