三十六.



 真っ赤に染まった楓の葉が、風にあおられてひらひらと、いくつもいくつも舞い降りていた。

(そっか、もう、冬も近いんだっけ……)

 昨日は見ることも忘れていた庭の様子に目を留めて、そっとため息を付く。

「楓さま、そろそろ、お歌が出来ましたか?」

 神妙に庭を眺める楓の様子に、何か勘違いしたのか、嬉しそうに女房が近づいてきた。楓は目の前に広げてある料紙を取り上げて、女房に突きつけてやった。

「か、楓さま!?」

「上手いもんでしょ?」

 にっこり笑って言ってやると、女房は青筋立ててぷるぷると震えた。

「……わ、私は、お歌を詠んでくださいませと、申したのですわ」

 今日も朝から付きっきりで、お妃教育をしようとする女房に、楓は心底嫌気が差していた。そもそも歌なんか詠めないと最初から言っているのに、しつっこいのだ。

 だから楓は描いてやった。歌の代わりに、可愛らしい、蛙の絵を。

「ねぇ知ってる? 楓の語源は、蛙の手なんだって。『かえるで』が訛って『かえで』。なんか……そう思うと、身近な気がしてさ。蛙も可愛いいと思わない?」

 くすくす笑いながら言うと、女房の青筋は三本に増えていた。

「いい加減にしてくださいませ!!」

 雷が落ちた。

「そのお言葉遣いも改めて頂かなくてはなりません。座り方も!! ほら、しゃんとして下さいませ! よろしいですか、歌というものは言葉にしにくいご自分の心情や儚いこの世の美しさなどを心を込めて詠うのです……それをそのように茶化してしまわれるなど、高貴な身の姫君のなさりようではございませんわ。なにより貴方様はこれから宮中へ向かう御身、まずはお心持ちを雅やかに……」

 延々と続きそうなヒステリックな声は聴き流す事に決め込んで、楓はまた庭を見つめる事に専念した。



 夕刻になるとようやくうるさい女房は下がって行った。向こうも疲れ果てていたようだが、お互い様だ。お妃教育など、全く受けてやる気が無かった。

(行儀なんかどうだって、結局は春宮の元へ嫁がされるんだから……!)

 疲れきって脇息にもたれていると、誰か近づいてくる気配があった。

「楓、菓子を持ってきたぞ。食うか?」

 左衛門督だった。

「……ううん、要らない」

 兄ぶって気遣う振りをしたところで、どうせ内大臣に命令されて、見張りに来ているだけなのだ。楓は一人にして欲しかった。しかし左衛門督はずかずかと楓の前までやって来て菓子の入った包みを広げる。

「そう言うなって、これは宣耀殿の春宮女御から貰った貴重な唐菓子だぞ」

「え……っ」

 いつか頭の中将に貰った手紙に書いてあった。宣耀殿の方から、大層美味なお菓子を頂いたとか、なんとか……。

「ほら」

 棒状に練り上げられた焼き菓子が目の前に並べられる。なんともいえない甘く香ばしい薫りが鼻を突いて、楓は一つつまみ上げた。少しかじると、ほんのりと広がる甘みにおもわず頬が緩む。

「うまいか?」

「……うん」

 この時代、甘味というのはとても貴重で、滅多に口には入らないのだ。左衛門督は、ふっと笑った。

「やっと、笑った」

 楓はきょとんとして兄の顔を見上げる。

「おまえ、悲しんでる顔か怒ってる顔しかしないから、心配してたんだ」

「……え……」

 そういわれても、内大臣家に来る事も不本意だったし、嫌いな手習いをさせられる事も、春宮妃になれといわれる事も、何一つ良いことなんてなかったんだから、仕方が無い。

「……だって、全部、意に沿わない事ばっかり……」

「お前、琴はあんなに上手いじゃないか。なんで朝倉の前では弾かないんだ」

 朝倉というのは楓の側に引っ付いて、がみがみ言っていたあの女房の事だ。

「お前、実は歌も字も上手いんじゃないか?」

「それは買い被りよ。私が得意なのは琴だけ。……嫌いな人には聴かせたくないの」

「ふーん、じゃ、俺の事は好きなんだな」

「なっ……、あんたの前でなんか弾いてないじゃない」

「あんたってのはよせ。……俺は夜の間近くに控えてるって言ってあっただろ」

「あれは自分のために弾いてただけ!」

 左衛門督は面白くなさそうに眉根を寄せて口を尖らせた。

「……せっかくの容姿も琴の腕も、その気の強さでは台無しだな……」

 不服そうにこちらを睨む様子が、どこか悲しげにも見える。楓は少しだけ、悪い事をしてしまったような気がした。

「あ、兄上……」

「……なんだよ」

「笛は、出来る?」

「笛……? まぁ、一応、出来なくはないな」

 楓はあの晩、頭の中将と合奏をした夜の事を思い出していた。

「……じゃあ、伴奏してくれる?」

 左衛門督は目を見開いて楓を凝視し、それからすぐに立ち上がった。

「すぐ取ってくる、ちょっと待ってろ」

 ばたばたと駆けて行った。



 兄の左衛門督は、結局は内大臣の命令に従っているだけなのかもしれないが、楓を気遣ってくれている気持ちは、本当のようだった。それなら少しだけ便乗して……、心を救って欲しかった。

(諦めるって決めたのに)

 忘れたいはずなのに、忘れたくない。中将の姿や言葉を、少しでも、なぞりたくて仕方が無い。

(私……何してるんだろ……)

 琴を用意しながら、どうしようもない自分の気持ちをもてあまして、楓は胸を押さえた。



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